岡野金型製作所から、父親に引退してもらって、正式に「岡野工業」になったのは1972(昭和47)年のことだった。 父親の銀次さんは、会社を息子に任せると、仕事には、一切口を出さなくなった。その2年前から、岡野さんは、プレス加工の製品をつくりだしていて、会社の利益はうなぎのぼりに上昇していたからである。 「仕事に口は出さないけど、親父はいつももったいないと口癖のようにいっていた。おれが電気つけっぱなしにしていると、それを消して歩いていた。親父はまじめでいい職人だったけど、人とは付き合わず、経営も下手だった。おれはそばでみながら、それではだめだ、とずっと思っていたんだ」 最初に受けたプレス加工の仕事は、ミツミ電気からの、コイルケースの注文だった。これは、だれもやりたがらない、安い請負い仕事だったが、岡野さんは、それまで4工程かけてつくっていたケースを、1度のプレスで製作できる自動化機械をつくった
金型も作るプレス屋をめざして、岡野雅行さんが、「夜の工場」をひとりでやっていたのは、29歳から39歳までの10年間だった。 この10年間は、雌伏のときではあったが、この時代がなければ、世界の匠は生まれなかった。寝食を惜しんで、工夫を重ねては、没頭する日々だった。 しかし、昼は父の工場で働いているのだから、プレス仕事の営業はできず、数年間は仕事も入ってこなかった。 仕事にうねりが起きたのは、新しい旋盤を購入してからだった。32歳の雅行さんが目をつけたのは、金属加工機械メーカー、アマダの旋盤だった。父の工場にあったのは、モーターの動力をベルトを通して金型に伝えるもので、回転数が少ない。 今後のことを考えると、どうしても直結型の旋盤が必要だった。1965(昭和40)年当時、それは1台75万円した。年収の倍以上だった。 岡野さんは、思い切って、アマダの城東営業所を訪ねて、所長に直談判した。 「どう
岡野さんは真っ正直な方である。それに加えて義理人情に厚い。とてつもないことを頼んでくる人がいても、その人が、いいやつだと思えば、「やるよ」と答えてしまう人でもある。 この「やるよ」の返答の中には、仕事を引き受けるということだけでなく、そこにある製品をもっていけ、という場合もある。 そうなのである。 岡野工業では、むずかしい精密な仕事だけでなく、単価が安くて、どこの工場でも受けない仕事をやるのを、もう1つの「売り」としている。これは創業以来の信条である。 それで、安い金属板を使って、円筒形のケースを大量につくるとする。たとえば10万個つくる。そのうち1000個くらいは寸法に若干の狂いがでる。岡野さんはそれらをまとめてスクラップにしてしまう。 すると、それを買いたい、といってくる生活雑貨屋がでてくる。いったいどこから聞きつけたのだ、と不思議になる。それに、こんな金属ケースなんか一般の人が買うは
下町の岡野工業は、今ではすっかり有名になった。だから工場を見学したい、という人があとをたたない。しかし、希望する人全部を案内していては、仕事にならない。ここは大企業の工場ではないし、広報部もおいてない、100坪弱の町工場なのである。 だから、今では基本的にすべて断っている。 ただし例外がある。中学生である。岡野さんが苦笑混じりに話す。 「修学旅行で、どこにいきたいと先生にきかれて、岡野工業というやつがいるわけよ。普通ならディズニーランドとかお台場とかいうだろうし、優等生ならソニー、松下と答えるだろ、そこで岡野工業というから先生はきょとんとするわけ。なんだそこはとなるわな」 生徒の説明はこうである。 毎晩お父さんが熱心に読んでいる本がある。それで、お父さんがいないときに、そっと開いてみた。それを読んで感激したので、是非行ってみたい。 その本とは『人のやらないことをやれ』(ぱる出版)のことなの
下町の岡野工業は、今ではすっかり有名になった。だから工場を見学したい、という人があとをたたない。しかし、希望する人全部を案内していては、仕事にならない。ここは大企業の工場ではないし、広報部もおいてない、100坪弱の町工場なのである。 だから、今では基本的にすべて断っている。 ただし例外がある。中学生である。岡野さんが苦笑混じりに話す。 「修学旅行で、どこにいきたいと先生にきかれて、岡野工業というやつがいるわけよ。普通ならディズニーランドとかお台場とかいうだろうし、優等生ならソニー、松下と答えるだろ、そこで岡野工業というから先生はきょとんとするわけ。なんだそこはとなるわな」 生徒の説明はこうである。 毎晩お父さんが熱心に読んでいる本がある。それで、お父さんがいないときに、そっと開いてみた。それを読んで感激したので、是非行ってみたい。 その本とは『人のやらないことをやれ』(ぱる出版)のことなの
私の机には、いつもひとつの鈴が置かれている。これは岡野雅行さんから取材の折りにいただいたものだ。そのとき岡野さんは、 「これは幸運をもたらす鈴だ」 といって、にこにこしながら手渡してくれた。 鈴は直径が1センチくらいで、指先でつかんで振ると、いつも可憐な音をたてる。上から見るとただの球体だが、底には空気を取り入れて、微妙な音色をたてるための、細い割れ目がはしっている。 底から見たこの顔が面白い。丸顔のつるりとした異星人が、唇の両端にえくぼをつくって、ニマーっと笑っているように見えるのだ。この鈴を振ると、なんとなくホッとする。なぜだか癒される。鈴とはそういう性格のものらしい。 一見、何の変哲もない鈴だが、実は、ここに痛くない注射針「ナノパス33」の、開発の秘密が隠されている。 テルモの注射針開発リーダーの大谷内哲也氏が、岡野さんを訪ねてきたのは、2000年のことである。大谷内さんらは、それま
岡野雅行さんは、いまや日本を代表する、世界の有名人である。 なんといっても、NASA(米航空宇宙局)から直接仕事を依頼されることもあれば、米国防総省と共同で、レーザー反射鏡用のパラボラアンテナを開発したこともある。原子力発電所の、冷却用パイプの改良に成功したのも岡野さんである。それも、わずか6人の従業員しかいない町工場から、世界に向けて発信された、精巧な製品である。 そう書くと、なにやら国家的なプロジェクトに参加するのが、得意な人のように思えてしまうだろうが、事実はまったく逆だ。岡野さんを一躍有名にしたのは、大きな製品ではなく、リチウムイオン電池ケースなのである。 かつての携帯電話は、スーツケースのような大きさで、しかも、電池が重くて、肩に担いでいると、骨のきしむ音が聞こえてくるほどだった。携帯電話を小型化するには、電池ケースを小さくする必要があった。だが、リチウムイオン電池でつなぎ目のあ
岡野雅行さんは、いまや日本を代表する、世界の有名人である。 なんといっても、NASA(米航空宇宙局)から直接仕事を依頼されることもあれば、米国防総省と共同で、レーザー反射鏡用のパラボラアンテナを開発したこともある。原子力発電所の、冷却用パイプの改良に成功したのも岡野さんである。それも、わずか6人の従業員しかいない町工場から、世界に向けて発信された、精巧な製品である。 そう書くと、なにやら国家的なプロジェクトに参加するのが、得意な人のように思えてしまうだろうが、事実はまったく逆だ。岡野さんを一躍有名にしたのは、大きな製品ではなく、リチウムイオン電池ケースなのである。 かつての携帯電話は、スーツケースのような大きさで、しかも、電池が重くて、肩に担いでいると、骨のきしむ音が聞こえてくるほどだった。携帯電話を小型化するには、電池ケースを小さくする必要があった。だが、リチウムイオン電池でつなぎ目のあ
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