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dtpと活字に関するjdashのブックマーク (3)

  • 新聞の活字は天地を縮めたのではない: ほぼ文字についてだけのブログ

    トナン・大熊肇の(ほぼ文字についての)覚え書きです。 充分に検証していないこともありますので、眉につばをつけてご覧ください。 連絡先:hajimeアットマークtonan.jp(「アットマーク」を「@」に変えてください) 『文字の骨組み』2刷の間違いとご指摘 『文字の骨組み』初刷の間違いとご指摘 『文字の組み方』訂正箇所 新聞の活字は,戦時中に紙などの物資が足りなくなり,限られた紙面にたくさんの文字を詰め込むために天地を縮めたのだと思っていたが,実際はそうではなく左右を広げたものだった 昭和16年(1941)12月5日の朝日新聞夕刊に次のような社告が出ている。 明日より新活字を使用 社は國民視力保健の立場から昨年来記事面活字の改良につき鋭意研究中のところ、今回新活字の完成を見ましたので、明朝刊紙上よりこれを使用することになりました、新活字はこの社告に見らるる通り従来より大きく読みやすくなり

    jdash
    jdash 2010/02/22
    そうなのか~。ほ~。『活字の天地を縮めたのではなく,活字の左右を広げたことがわかる。』
  • 活字書体から写植書体、そしてデジタル書体(16)―フォント千夜一夜物語(49)

    1960年代、日文化・産業が大変動をきたしていた頃、写植業界はまだ揺籃期であった。当時は印字された品質自体が低いにも関わらず、活版印刷技法の退潮をみて「活字よさようなら、写植よこんにちは」と大胆にも謳った時代があった。そして「ホットタイプからコールドタイプへ」と叫んだのもこの時代である。 しかし活字に代わり写植が文字組版の主役の立場になったが、オフセット印刷への技法そのものも変動のなかにあった。写植書体が印刷物に使われるようになって活字信奉者は写植書体を批判するようになった。 つまり写植明朝は活字体に比して弱々しいとか、オフセット印刷の文字組みはグレー色で読みにくく目が疲れるなどである。特に出版編集者は写植組版を嫌っていた。 ●活字書体から写植書体への移行 1970年代以降、写植書体は新書体が続々と登場するようになった。活字の書体の種類は、明朝体、ゴシック体が主流で加えて楷書体など、書

    jdash
    jdash 2009/06/30
    これかな?『しかし開発期にはまだ写真の解像力が低かったので、活字書体の清刷りのままでは細部の表現に欠けた。また、字並びにも問題があった。後年には文字を拡大撮影し青焼きにして、墨入れの方法で文字板の元を
  • 活字書体から写植書体、そしてデジタル書体(9)-フォント千夜一夜物語(42)

    jdash
    jdash 2009/06/30
    「秀英明朝体」の生い立ち。『秀英舎(現在の大日本印刷。1935年に日清印刷と合併)は、1876年に佐久間貞一により創業された。最初は築地活版所から活字を購入していたが、1881年から自家鋳造を開始して活版製造所製文堂
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