ブックマーク / jougetu.hatenablog.com (2)

  • 「待つ」ということを人生の一部に入れたい - 星の動く音がうるさい

    ブログを書いてる最中は、気になる数行を頭に入れてから、席を立つようにしてる。 お風呂掃除とかトイレ掃除とか、日常の雑務をこなしていると、その数行が蒸してきたり、逆にサッパリ抜け落ちたりして、自動的に選別される。 偶然の働きに身をゆだねて、理性を退避させたところに、「水が満ちてくるように」何かがやってくるのを待つ。 そんな風に、「待たないようにして待つ」ということを少しずつ人生の一部に入れられたらいいなと思う。 創造的な作品づくりには、そういう「ゆるみ」が必要だと言うので、いい文書を書くときにも、前のめりにならずにゆるく待つのは有効だと思う。 でも最近はそれだけでなくて、もっと予測不可能的に待ちたいと思い始めてきた。 何かを待っているのに、何を待っているのかわからないという狂人じみた不合理が、人生に大切な気がする。 「すばらしい日だな。こんなに何もなくて、こんなにすばらしい日は、一生のうちに

    「待つ」ということを人生の一部に入れたい - 星の動く音がうるさい
    k45115
    k45115 2016/05/19
  • 美は余剰か - 星の動く音がうるさい

    美は内部にある あくせく働いて、いろいろ失敗して、たくさん叱られて、くたくたになって会社から帰っているのに、顔を上げてみれば、地平線の向こうでは夕焼けが爆発して、いたずらに色彩を濫費してるとき、私の理性を無視して、強制的に美が与えられる。 疲れてるのに、美しいなって感じちゃう。 雲が紫に染まって、赤が太陽に統括されて、ふざけてるくらい、色が無駄づかいされて、しかも迅速に消えること。 無意味に、おしみなく美が与えられることで、今日の瑣事が無効になる。 私のような対極の存在に与えられるほどの、大きな美があふれていて、自然自体にとっては一個の余剰である。 そこでは自然に美自体が実在するのではない。 美は、自然から弾き出されて、余ってる。 弾き出された美は、どこにあるのかといえば、私の心の中にあるとしか言えない。 心の中にあるのなら、人それぞれ違うものになるけど、現に、それぞれが好きなように美を感

    美は余剰か - 星の動く音がうるさい
    k45115
    k45115 2016/05/07
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