印刷 冷戦下の1954年、西側諸国の囲い込みと第三世界の取り込みのために「原子力平和利用博覧会」を世界各地で計画していた米政府が、日本での最初の開催地として当初、被爆地の広島を検討していたことがわかった。米国の水爆実験で第五福竜丸が被曝(ひばく)した「ビキニ事件」で日本の反核運動が拡大することを警戒する米政府に、被爆地を利用して原子力の利点をPRしようという動きがあったことを示している。 朝日新聞が入手した、広島アメリカ文化センター館長を務めた故ファズル・フツイ氏の未公表の手記から明らかになった。 53年夏の旧ソ連の水爆実験成功で核技術の独占をあきらめた米国は、原子力の技術を提供することで西側の結束を狙う方針に転換。博覧会は原子力が産業や医療、農業などに役立つことをPRするもので、米国の対外戦略の一つに位置づけられた。