
最近、地元の役所に用事ができて実家に帰った。市役所には小さな子供連れが大勢いて、特段、活気のある自治体だと思っていなかったので驚いた。若い人たちの街になりつつあるのか。自然が多いわりに便利でいいところだぜ。みんなもこの街を好きになってくれたら嬉しい(俺はもう暮らしてないけど)。 … 用を済ませて、滞在中の実家に戻る。なんとなく思いたって、イヤホンでニュースを聴きながらかつての近所をぶらぶら散歩することにした。 歩いて5分ぐらいのところにある老舗のスナック。いま40手前の俺がまだ中学生だった時点でけっこうなバアさんのママが経営していたが、「そういうバアさんがいたよな」と思いながら前を通りかかったら、もっとバアさんになった本人がひょっこり出てきたので驚いた。別に面識もないし、嬉しいも何もないが、すげえな、という感銘を抱いた。 … そのまま通り沿いに歩くと、旧友が暮らしていたマンションがある。こ
はじめに 百物語の案をつくっており2050年ごろに完成する予定なのだが、このような流れもあって、『深夜百太郎』を久しぶりに読み返したくなった。小説家、アニメの脚本家である舞城王太郎による百物語だ。旧twitterにて、一夜一話連載されていた。 基本的にはホラーなのだが、実話怪談風のものから伝奇っぽいもの、ドタバタなものまで、色々なジャンルが詰め込まれていて読んでいて楽しく、すごくよくできている(一部に受け付けないものもあるけど。これは後述)。また、舞城王太郎の作品として大変に特殊な位置付けにあるとも思っている。そこも含めて、印象的だった話の紹介を中心に、考えたことを書いておく。 倒れた木 福井県の田舎で、子ども同士で遊んでいたところ、木のくぼみにあるものを見つけて…という話。 『深夜百太郎』という本は調布(都内としては緑が多いが、開発された市街)と福井(自然が色濃く残る土地)とを交互に怪談
東アフリカ、もっと特定すると私が1997年から毎年調査で滞在しているウガンダには、四季はない。気候的には大雨期と少雨期、その間に挟まれた2回の乾期があるだけである。「夏」という「季節」を考える考え方が、本来的には、ないのだ。 そして、日本のように、毎年きまった期間、お盆のような時期に死者の霊が子孫のもとに帰って来るという考え方も信仰も、それらにもとづく行事も本来はない。名前が特定できる死者、つまり最近死んだ死者の霊はルンベ儀礼という最終葬送儀礼がおわり、住んでいた小屋が破壊されるまでは、常に生者とともにいる、と考えられている。 すくなくとも私の知る限りにおいては、怖い話を聞くとぞっとする、とか、「冷や汗」をかく、という考え方もない。だから、暑い「夏」になると、涼をとるために「怪談」や「怖い話」の需要が増えるという現象もありえない。「語り部」のような立場の人々がいて、物語を語って聞かせる習慣
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