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昭和史とアジア太平洋戦争に関するkangirenのブックマーク (6)

  • 日本を攻撃させた日本軍士官 ワダ・ミノル〜フライング・レザーネック航空博物館 - ネイビーブルーに恋をして

    フライング・レザーネック海兵隊航空博物館のHPを検索していて 一人の帝国陸軍軍人にまつわる資料を見つけ、わたしは強い衝撃を受けました。 彼は、フィリピンにおける日軍の侵攻を阻止する アメリカ海兵隊の航空機に乗っていました。 捕虜として捕らえられたこの日軍の士官は、 アメリカ軍に日軍の位置と状況を語り、攻撃に協力していたのです。 1945年8月9日、長崎に第2の原爆が投下された日、 海兵隊爆撃隊VMB-611のPBJ-1Dミッチェル爆撃機と 海兵隊戦闘隊VMF-115のF4Uコルセア戦闘機は、 ミンダナオ島ザンボアンガのモレット飛行場から 帝国陸軍原田中将の司令部への攻撃に向けて離陸準備をしました。 先頭機のパイロットは3人の変わった乗客の名前を フライトマニフェストに追加しなければなりませんでした。 陸軍の地上連絡将校兼攻撃調整官のモーティマー・ジョーダン少佐、 通訳のチャールズ・イ

    日本を攻撃させた日本軍士官 ワダ・ミノル〜フライング・レザーネック航空博物館 - ネイビーブルーに恋をして
  • インパール作戦後の“地獄”指導者たちの「道徳的勇気の欠如」 | NHK | WEB特集

    太平洋戦争で日軍と戦ったイギリス軍のある司令官は、日軍の上層部の体質を次の様に喝破していた。 「日軍の指導者の根的な欠陥は、“肉体的勇気”とは異なる“道徳的勇気の欠如”である。彼らは自分たちが間違いを犯したこと、計画が失敗し、練り直しが必要であることを認める勇気がないのだ」(第14軍 ウィリアム・スリム司令官 ※タイトル画像の人物) 戦いの舞台となったのは、インパール作戦で知られるビルマ戦線(現在のミャンマー)。実は、太平洋戦争で“最も無謀”といわれたインパール作戦のあと、それをはるかに上回る命が失われていたのだ。 指導者たちのどのような体質が、さらなる“地獄”を作り出したのか。 77年の時を経て、私たちが直視すべき「道徳的勇気の欠如」、その実態をひもとく。 (NHKスペシャル「ビルマ絶望の戦場」取材班)

    インパール作戦後の“地獄”指導者たちの「道徳的勇気の欠如」 | NHK | WEB特集
  • 731部隊の元少年兵が激白…「残虐な人体実験が我々の日常だった」(現代ビジネス編集部) @gendai_biz

    731部隊にいた10代の少年兵たち 「任務が終わった夜に同期の友人と会うと、お互いの業務内容を話していました。『今日は人体解剖をした』『軍用犬に細菌兵器を運ばせる訓練をしている』なんて人もいましたね。まだ10代でしたけど、当然施設内で生物兵器を作っていることも知ってましたよ」 たった14歳で731部隊に入隊した元少年兵の須永鬼久太氏(92)はこう語る。 関東軍防疫給水部部、通称「731部隊」。満州のハルビン市近郊に拠点を構え、表向きには兵士の感染症予防や安全な給水システムに関する研究を行っていた。しかし秘密裏に非人道的な人体実験を繰り返し、実戦での使用を目指して生物兵器を開発していたとされる。 14歳から17歳という多感な青春時代を、須永は「日陸軍史上もっとも残虐」とされる部隊で過ごした。戦後75年が経ち、731部隊の実情を証言できる元隊員は少ない。満州の地で、彼はいったい何を見たのだ

    731部隊の元少年兵が激白…「残虐な人体実験が我々の日常だった」(現代ビジネス編集部) @gendai_biz
  • 日中戦争に従軍した祖父

    ※過去の記憶を頼りに書いているため、情報の正確性を保証できません。それを了承の上でお読みください。 前置きを飛ばしたい場合は引用ブロック部分へ 今は亡き私の祖父は、日軍兵士として末期の日中戦争に従軍した。 約10年前、祖父は私にその時の詳細を一度だけ語った。 第二次世界大戦が終わって75年、その話を自分の記憶がこれ以上劣化しないうちに書き留めておく。 ・祖父…1920年12月生まれ、1944年頃〜1945年従軍、体験を語った当時90歳(認知機能正常) ・私 …1990年生まれ、話を聞いた当時21歳 私は幼い頃から祖父が中国戦争に行ったことを知っていた。 しかしそれ以上のことは何も知らないままだった。 大学2年のGW、私は両親、妹と共に父方の祖父母宅へ遊びに行った。 祖母と母が台所で事の片付けをし、祖父、父、妹、私が居間で団欒していたその時だった。 祖父が何の前置きもなく、そして極めて

    日中戦争に従軍した祖父
  • 終戦のご聖断もあわや水の泡!? 日本海軍最強部隊叛乱事件の真相(神立 尚紀) @gendai_biz

    昭和20(1945)年8月14日の御前会議で、連合国が発したポツダム宣言を受諾する「聖断」をくだした昭和天皇は、翌8月15日、自ら「玉音放送」を通じて国民に戦争の終結を告げた。 だが、陸海軍の全ての部隊が降伏に納得し、ただちに矛をおさめたわけではなかった。なかでも、神奈川県厚木基地に拠点を置く帝都防空の主力・第三〇二海軍航空隊(三〇二空)は、司令・小園安名大佐のもと徹底抗戦を呼号、海軍上層部に叛旗を翻す。 折しも連合軍は、最初の進出地として厚木基地を指定してきた。万が一、三〇二空が基地を占拠し、進駐のため飛来する連合軍機を撃墜するような事態が起きれば、講和は無に帰してしまう。 三〇二空によるクーデターと、連合軍の無血進駐のために奔走した男たち。それぞれが信じた「正義」の行方は――。 天皇自らの意思で決まったポツダム宣言受諾 昭和20(1945)年7月26日、アメリカ、イギリス、中華民国の首

    終戦のご聖断もあわや水の泡!? 日本海軍最強部隊叛乱事件の真相(神立 尚紀) @gendai_biz
  • 「もし75年前にSNSがあったら」広島市民の日記をTwitterで再現した #ひろしまタイムライン 8月6日のツイート

    「#ひろしまタイムライン」とは 「もし75年前にSNSがあったら」という仮定で3人の広島に住む市民のツイッターアカウントを運用するNHK広島放送局の取り組み。 NHK生活・防災 @nhk_seikatsu 【75年前の広島市民の日記をTwitterで】 8月6日 あの日から75年です 昭和20年当時 中学一年のシュン君 @nhk_1945shun 妊娠中の主婦やすこさん @nhk_1945yasuko 新聞記者の一郎さん @nhk_1945ichiro の日記をもとにツイートしています #ひろしまタイムライン nhk.or.jp/hiroshima/hiba… 2020-08-06 09:54:28

    「もし75年前にSNSがあったら」広島市民の日記をTwitterで再現した #ひろしまタイムライン 8月6日のツイート
    kangiren
    kangiren 2020/08/06
    「ツイッターしてる余裕ないだろ」スマホから撮影された東日本大震災大津波の映像がニコ動にいろいろアップされてたことが、答えになるのでは?
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