山梨県にやってきました。 研究会が始まるまで時間があったので、まずはひとっ風呂。 研究会の前に温泉に入れるなんて贅沢ですね。 時間ちょうどに会場に到着して、そそくさと席に着きました。 最初の発表は、北杜市教委の佐野さんによる旧明野町域、茅ヶ岳南西麓でこれまでに見つかった牧関連と思われる遺跡の紹介。 この分野については不勉強だったので、紹介された遺跡にはただただ驚き。 永井原V遺跡の約700mにも及ぶ溝などは圧巻でした。 ただの溝だったそうですが、溝以外にどのような構築物が伴っていたのかが気になります。土塁の存在した可能性はあるとのこと。柱痕跡は認められなかったそうです。 ただの溝なのかぁ…。 2つ目に発表は、埼玉県埋文の田中広明さんによる、考古学側からの発表。 焼印の考古学的研究は方本論的原点に返ることの重要性を再認識させられました。 やはり考古学の研究は型式学ですね。 武蔵国司や中央権力
1.20 角家主、遣新羅使に任命される。 1.22 新羅使、来朝。 5.11 新羅使40名、入京。珍鳥珍獣などを貢進。 5.21 詔して新羅使の来朝を3年に1度とする。 8.11 遣新羅使角家主、帰国。 8.17 第9次遣唐使任命。同日、節度使を任命し西辺の武備を固める。(注)当時渤海と唐・新羅は対立関係にあり、渤海が日本に接近したことに対し新羅は警戒感を強めていた。おそらく遣新羅使はそうした情報を持ち帰り、同月の節度使任命・海辺強化の策が出されたものと思われる。 8.22 四道の兵士の充足・兵器の修理・軍船の造営を命ずる。 この年、渤海武芸王、水軍を用いて山東半島の登州都督府を攻めさせ、海上交通路を制圧。渤海と唐の関係緊張(旧唐書)。
渤海 ●渤海(ぼっかい) 高句麗の滅亡後、領内の靺鞨人と高句麗遺民がたてた国。 のちの所謂満州と北朝鮮・沿海州の地域を支配し、唐王朝と並び立つ豊かな国だった。 日本との交流も盛んだった。渤海使者と菅原道真の交流は有名。 唐の滅亡と同時期に契丹族(遼)により滅亡する。 のちの女真族(金)・満州族(清・満州国)は靺鞨人の一派の末裔。 ●乞乞仲象(こつこつちゅうしょう) 靺鞨人。高句麗国内の部族だったが、高句麗滅亡により中国・唐王朝の部族になる。 混乱の中、同じく領内部族の契丹族・李尽忠が反乱をおこし、靺鞨人・乞乞仲象もこれに参加する。 唐王朝の則天武后は反乱軍の分裂を図る。乞乞仲象に「震国公」の位を与え、離反させようとしたのだ。 靺鞨人たちはこれに応じず、唐と戦うが敗れ、乞乞仲象は死亡する。 ●大祚栄(高王)(〜)(在位698〜719) 乞乞仲象の子。唐に敗れた靺鞨人と高句麗人をまとめ、追撃軍
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