2018年11月28日のブックマーク (4件)

  • 20代、30代でリタイアする「FIREムーブメント」が流行ってる | ギズモード・ジャパン

    20代、30代でリタイアする「FIREムーブメント」が流行ってる2018.11.28 08:05119,345 satomi ストレスいっぱいな社会と別れを告げる若者たち。 AIが広まって、「働かなくていい未来」が見え隠れしている今、20代、30代でリタイアするムーブメントがギークの間で注目を集めています。 名付けて「FIRE(Financial Independence, Retire Early:経済的に独立して早期退職)」。火付け役はこの写真のPete Adeney(ピート・アデニー)さんです。 4%ルール夫婦で各6万7000ドル(約750万円)のソフトウェアエンジニア仕事をしながら無駄遣いを一切やめて貯めこみ、20万ドルの家と60万ドル貯まった30歳のところでスパッと会社を辞めました。60万ドルあれば運用利回り4%を生活費に回すだけで、夫婦と子ども計3人の家計は十分回っていくと考

    20代、30代でリタイアする「FIREムーブメント」が流行ってる | ギズモード・ジャパン
  • シリコンバレーで働いて気付いた「技術力向上」だけに固執するエンジニアのダメさ【Sansan CTO 藤倉成太】 - エンジニアtype | 転職@type

    この連載では、注目企業のCTOが考える「この先、エンジニアに求められるもの」を紹介。エンジニアが未来を生き抜くヒントをお届けします! 法人向けクラウド名刺管理サービス『Sansan』や個人向け名刺アプリ『Eight』を手掛けるSansanが、2018年6月にCTOの役職を新設した。初代CTOは、創業間もない頃からSansanの事業を率いてきた藤倉成太さんだ。 もともとコードを書くことが大好きで、自身の技術力を上げることが大事だと思っていたという藤倉さん。しかし今では、「エンジニアこそ事業にコミットすることが大切」だと確信するようになった。それはなぜなのか。 徹底的にエンジニアリングに向き合ってきた藤倉さんだからこそ分かる、エンジニアが事業に関わる重要性とは? Sansan株式会社 CTO 藤倉成太さん(@sigemoto) 赴任先の米国・シリコンバレーで現地ベンチャー企業との共同開発事業に

    シリコンバレーで働いて気付いた「技術力向上」だけに固執するエンジニアのダメさ【Sansan CTO 藤倉成太】 - エンジニアtype | 転職@type
  • 伝説のPHP作者「Rasmus Lerdorf」名言集を聞くと嫌PHP厨がファビョる

    今のPHPを作ったのは、何十人もの開発者ですよ。私は1人目の開発者だったに過ぎません。 問題を解くのが好きなだけで、プログラミングは大嫌いです。 いかにプログラミングを避けるかを考えていたら、コードを再利用するためのツールとしてPHPができました。PHPは、歯ブラシみたいなものですね。毎日使うものですけど、だから何でしょう?誰が歯ブラシのなんて読みたがります? パーザを書くのは苦手です。当にダメなんです。今でもね。PHPには「protected属性」も「仮想メソッド」もありますよ。情報学科の教官が「重要だ」っていうやつは何でもね。僕自身は、こんなものどうでもいいと思ってますけど。プログラミングを好む人がいるのは知ってますが、全く理解できないですね。 僕はホンモノのプログラマではありませんから、やっつけ仕事ですよ。ホンモノのプログラマは、「動いてるように見えるけど、メモリリークだらけじゃ

    伝説のPHP作者「Rasmus Lerdorf」名言集を聞くと嫌PHP厨がファビョる
    katoukaitou
    katoukaitou 2018/11/28
    問題を解くのが好きなだけで、プログラミングは大嫌いです。
  • NTTの株価総額が世界一だった時に、Microsoftに転職した理由

    「6年勤めたNTT退職しました」という記事が、注目を浴びているようですが、この筆者が NTT を辞めた理由が、私が32年前(1986年)に NTT を辞めた理由とあまり変わらないのに、少々驚きました。 私が NTT を辞めた件に関しては、これまで色々なところで話しては来たのですが、まとまって文章にしたことがなかったので、これを機会に書くことにしました。普段ならメルマガ(週刊 Life is beautiful)の読者限定で書くところですが、今回だけは、出来るだけ多くの人に読んで欲しいので、ブログ記事として公開します。 当時、NTTは電電公社から民営化したばかりで、1985年に入社した私は、NTTとしては第1期生でした。大学は、早稲田の理工学部電子通信学科で、修士課程まで行きました(当時は、情報学科はまだ独立しておらず、電子通信学科がソフトウェアとハードウェアの両方をカバーしていました)。