(3:26:40 ~ ) マスメディアで啓蒙できたと思っているときは幻想である 何百万人に届くものとは、人々がそもそも想定していたものだけが届くのであって、そこで何かやろうとして人々がもともと期待したものしか受け取らないから(マスメディアによって)「変える」ってことは本質的にできないのではないか。だからもっと原点にもどって何百人、何十人から始めて、積み上げていくしかないのではないかなと最近は思っている。 (東浩紀) vimeo.com
アクティブラーニングという動名詞に以下のように「方法論ではない」、アクティブラーニングは理念であると主張している言説を見かけた。 渡辺敦司 :方法論が先行しているという指摘があったが、まさに方法論ではないんですよ。 円卓にしたり、班にしたりコの字にしたりするのがアクティブラーニングになる場合もあるし、ならない場合もある。というのはアクティブラーニングになるかどうかは、知識、技能、思考力、判断力、表現力、学びに向かう力、人間性の3つを育ってられているものがアクティブラーニングであって、育てられていないものはアクティブラーニングと呼ぶに値しない。 youtu.be もし上のような「成功を含意した」解釈がアクティブラーニングの定義なのなら、それは言葉の選び方の誤りだと言わざるを得ないと思う。「ラーニング」というからには学習法であるはずで、すなわち方法論であるべきだ。理念をぶち上げたいなら別の用語
で話題になっているが、そもそもリベラリズムの定義から再考すべきではないだろうか。 追記:下の記事でより日本における一般的なリベラル・リベラリズムの定義が述べられているのでそれを読んだ後に読むと良い。リベラルの定義はアメリカ、ヨーロッパ、日本でそれぞれ微妙に異なるので極めてめんどくさいのだ。「第二の類型」に属するバカリベラルの象徴SEALDsがにわかに持ち上げられたせいで、下の記事にある「第一の類型に属するリベラル」の力が相対的に弱くなった。というか、アホな「第二の類型」に属するリベラルのせいで、「第一の類型」に属するリベラルまで頭が悪いわからずやの夢想家みたいにひとくくりでみなされて、リベラル全体が見放されつつある。SEALDsは社会にほとんど政治的影響力をもたらさなかったのは、先の選挙で明らかとなったが*1 リベラリズムに対して大きな負のイメージを与えたという意味でSEALDsの影響は
(安保法案関連の報道で似たような憲法学者が多用されたことを踏まえて) 安倍宏行 : 一つテレビの人間として言わせてもらうと、一人の方がでると立て続けに全てのチャンネルに出るという現象がおきるんですね。それはまず、NHKにでていたから当然うちのチャンネルにも出てくれるだろう、民放のこのチャンネルにもでていたから当然うちのチャンネルにも出てくれるだろうという非常に安易な考え方なんですね。 調べてこの先生とこの先生はどう意見が違うかを研究するまでの力もないし余裕もない。日々のニュースにおわれてしまって。NHKは別にして民放のテレビにそこまで求めるのは無理がある部分がある。本来であれば新聞、もしくはネットメディアであるとか活字のメディアで説明しないと国民には知る術がない。 youtu.be
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