朝一番、開けた窓から吹き込む風がクジラのモビールを揺らす。潮騒とともに届く浜の香り。都会暮らしをしていたころ、何度も望郷の念に駆り立てられたのがこの香りだった。ここ何日かでほおをなでる風がぐんと冷たくなった。「白神のブナもそろそろ衣替えか」。阿部奈々子(34)は5年前、神奈川県川崎市から八峰町八森へ家族を伴ってUターンした。実家の離れを改築し、両親とはスープの冷めない関係。長男平(6)に次男亘(2)、そして東京育ちの夫征巳(40)も、小さな漁村の暮らしにすっかりなじんでいる。 奈々子が住む八森茂浦地区は、日本海にせり出した白神山系のすそ野にある。近くには、かつて東洋一の銀産出量を誇った発盛(はっせい)鉱山があった。製錬所のランドマークだった高さ43メートルの六角煙突も、露天掘りの穴も、今はない。ただ、自宅前の浜辺は製錬で出たズリが捨てられたため真っ黒だ。その栄華の名残を見て、奈々子は育っ