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2022年4月15日のブックマーク (2件)

  • 近所のおばさんがやってる個人の塾

    今日のはてなブックマークで盛り上がっていた、笑い飯の哲夫の塾の記事を読んでいて、ふと思い出したから書き留めておく。 https://news.yahoo.co.jp/articles/0ebb8f0cfa9377ae6d317df08076ee6809847ddd >>それともう1つ、僕が小学生のときに通っていた近所の塾が原点になっています。塾代が月3000円くらいで近所のおばあちゃん先生が教えてくれて、授業をするというよりは分からないところを教えてくれる場所でした。そういう地域密着型で、料金が安くて、「勉強の仕方」を教えてくれる塾ができたらいいなという思いがありました。<< うちの近所にもこういうのあって、通ってたよ。懐かしい。 もともとは近所のおばさんがやってたそろばん塾で、月謝3000円で週3回、1回1時間という今思うとハチャメチャな値段だった。 そのおばさん

    近所のおばさんがやってる個人の塾
    kidspong
    kidspong 2022/04/15
    私が通ってた近所の個人塾では、学校の勉強は一切せず、慣用句やことわざを学んだり、百人一首を暗唱するなどばかりで。当時はその意味がわからなかったけど、今思えば教養を身につけさせてくれる場だったんだなと
  • 「最強の自分」になれないおれたちは、病んでいく

    「好きで働いているんだろ?」 精神科医である斎藤環の『家族の痕跡―いちばん最後に残るもの』を読んでいたら、このような記述にいき当たった。 このように考えてみてはどうか。すべての「職業人」は「好きこのんで仕事をしている」のだ、と。 これを言うのは、正直に言えば、なかなか辛い。厳しい疲労とストレスに耐えて、それでも真面目に働いている人々を、もちろん私は尊敬する。 しかし、その尊敬こそが危険なのだ。その種の尊敬は、そのような生活スタイルがどうしても取れない人たちに対する軽蔑を伴わずには成立しないからだ。 それゆえこの尊敬は小声で口にされるべきものだし、まして自らの多忙さを誇る(=愚痴る)ことは、あきらかに下品な振る舞いなのである。 これには前段があって、ネット(当時の2ちゃん)に書き込まれたコピペがあげられている。 そのコピペ(詩)は見つけられなかったが、「働いたら負け」のインターネット・ミーム

    「最強の自分」になれないおれたちは、病んでいく
    kidspong
    kidspong 2022/04/15
    「最強の自分になれるはず」と「最強の自分になれなくても生きる」では、後者の方が自己肯定感は高いんだとおもう。「あれもない、これもない自分」であっても堂々と生きていいということ、いつもつい忘れそうになる