タグ

ブックマーク / www.shippai.org (2)

  • 失敗事例 > 航空母艦大鳳の魚雷一本の命中による沈没

    大鳳は排水量34,200トン、水線長253メートル、速力33.3ノット、飛行機搭載数53機で、日海軍が建造した最強の航空母艦と称せられていた。大鳳は1941年(昭和16年)7月、川崎重工(神戸)で起工した。建造中に緒戦以来の諸戦訓の対策が実施され、工事を極力急いで1944年(昭和19年)3月に完成した。したがって、あらゆる点で最も実戦的な不沈航空母艦と期待されていた。 1944年(昭和19年)6月19日、航空母艦大鳳は日海軍の信望を一艦に集め、第一機動艦隊の総旗艦として、初陣のマリアナ海戦(あ号作戦)に参加し、第一次攻撃隊を発進させた。その直後、大鳳に米海軍潜水艦アルバコーアの放った魚雷一が命中した。魚雷の命中によってガソリンタンクの継手が緩み、揮発油ガスが漏洩した。不運なことに、雷撃のショックで前部エレベータが故障し、この開口を塞止したため、揮発油ガスが格納庫内に充満した。数時間後

  • ベント遅れはあったのか? |失敗学会

    1 No.47、2011-6-12 発行 ベント遅れはあったのか? 今回の原発事故検証委員会の目的の一つが「ベント遅れ事件」の解明であり、各メディア、 例えば、6/8 読売新聞も、ベント遅れについて大きく取り上げています。 4/21 の No.29 メモで「1 号機については、ベントを早くできたとしても、水素爆発は防げ ないし、仮に水素爆発を防止できても、放射能流出は防げない」と書きました。 そもそも①ベントの目的は何か?②ベントはどういう条件で可能なのか?③ベントは早く できたのか?④ベントしないとどうなったのか?等々の疑問を検討しました。 結論は、そもそも「ベント遅れ事件」というものはなかった、ということです。 最初に水素爆発についてですが、原子炉建屋 5F(最上階)でおきたので、フランス・アレ バ社から 「格納容器ベントの行き先は原子炉建屋だった」 という指摘がありました (図1)

    kiku-chan
    kiku-chan 2011/08/02
    『結論は、そもそも「ベント遅れ事件」というものはなかった、ということです』『検証すべきは「ベント遅れ事件」そのものではなくて、なぜ多くのメディアがベント遅れがあるかのように報道したか?ということです』
  • 1