「私は生き残ってしまいました」。新井俊一郎さん(87)は子どもたちに被爆体験を証言する時、必ずこの言葉で始めます。広島高等師範(しはん)学校(現広島大)付属中の同級生や、被爆の4カ月前まで国民学校で机を並(なら)べていた大勢の友だちが犠牲(ぎせい)になりました。友だちの母親から「私の子どもは死んだのに…」と言われ、生き残った負い目に苦しんできたのです。 1年生で13歳だった新井さんは1945年7月下旬、同級生約80人と賀茂郡(現東広島市)へ疎開(そかい)しました。食糧増産のための「農村動員」で、寺と神社に暮らしながら、田んぼの草取りを手伝っていました。 8月6日朝、新井さんと同級生4人は自宅への一時帰宅を認められ、広島市内へ向かいました。山陽線の八本松駅(現東広島市)のホームで列車を待っていた時です。突然(とつぜん)、空が白く光り、棒(ぼう)で殴(なぐ)られたような衝撃(しょうげき)を感じ