【史書:楽毅列伝第二十(抜粋)】 チョッと長いんで2分割しました。 一部原文の漢字は、新字体にしました。 その他、誤字がありましたらお許し下さい。 『原文-①』 臣不佞、不能奉承王命、以順左右之心、 恐傷先王之明、有害足下之義。 故遁逃走趙。 今足下使人数之以罪。 臣恐侍御者不察先王之所以畜幸臣之理、 又不自臣之所以事先王之心、故敢以書對。 臣聞、賢聖之君不以祿私親、其功多者賞之、其能當者処之。 故察能而授官者、成功之君也。 論行而結交者、立名之士也。 臣密觀先王之挙也、見有高世主之心。 故仮節於魏、以身得察於燕。 先王過挙、廁之賓客之中、 立之群臣之上、不謀父兄、以為亞卿。 臣密不自知、自以為奉令承教、可幸無罪。 故受令而不辞。 『現代語訳-①』 私は不肖者とて、大命を奉じながら側近のご期待にそえず、 先王のご明察をも、尊下のご高義をも傷つけることになるのを恐れ、 趙に逃れたしだいでした
これは燕の恵王がアホだからというのとは少し違うんですね。 実は、戦国時代における構造的問題なのです。 楽毅は燕の昭王に個人的に仕えていたに過ぎないと考えると 分かりやすいと思います。 昭王が、いわゆる隗より始めよ、を実行し集まった 楽毅をはじめとした人材は、昭王との個人的紐帯で結ばれていました。 つまり、楽毅は燕という国に忠誠を誓っていたというより、 昭王個人の魅力に従っていたというべきなのです。 この場合、恵王にとっては、楽毅は父の臣下であり、 さらに外国人であるため信頼をおけなかったのです。 このパターンは戦国時代に非常に多くみられます。 商鞅は秦の孝公に信任されましたが、恵文王が即位すると処刑されました。 呉起は楚の悼王に信任されましたが、悼王死後に貴族たちに虐殺されました。 楽毅も含めて、彼らはすべて外国人でした。 秦の国では商鞅以後も、外国人の活躍が目立ちます。 張儀、范雎、蔡沢
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