エチオピア南部のショア地方の貴族の子として生まれる。血縁上はアドワの戦いで名を馳せた英雄メネリク2世の従兄弟の子にあたり、古代イスラエルのソロモン王とシバの女王の間に生まれたメネリク1世の子孫であることを主張した[1]。幼少の頃より聡明で、若くして各地の州知事を歴任した。記憶力が非常に優れており、晩年に至っても重要事項について全てを暗記していて、メモの類を一切必要としなかったという逸話が残っている。タファリ侯(ラス・タファリ)を称号とした。 ザウディトゥの崩御後、1930年4月にエチオピア帝国皇帝に即位し、同年11月2日に戴冠式が行われた[2]。1931年7月16日に大日本帝国憲法を範とし、7章55条から成るエチオピア帝国初の成文憲法たる「エチオピア1931年憲法」を制定した[3][4]。しかしながら、実態は絶対主義的な欽定憲法であり、社会体制そのものの改革には手をつけず、ガバルと呼ばれる