雲谷 等顔(うんこく とうがん)は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけて活動した日本の画家。肥前国藤津郡能古見(現・佐賀県鹿島市)生まれ。毛利氏の御用絵師となって幕末まで続く雲谷派の祖。次男は同じく画家で、雲谷派の跡継ぎである雲谷等益。 肥前国籾岳城の城主、遠くは梶原景季の流れを汲む武士、原直家の次男として天文16年(1547年)に生まれる。幼名を治兵衛、本名を直治、別号を容膝と称した。しかし、同じく直家の次男とされ、後に肥前鍋島藩の家老格として存続した家利の家系図には、直治の名は記されていないことから、庶子か原氏一族の出身という説が有力である。主家滅亡後、またはその少し前に画家へ転向し、京都で狩野派に学ぶ。師は、狩野松栄、または狩野永徳とされるがはっきりしない。ただ、毛利藩の公的文書に「狩野等顔」と署名していることが近年発見されており、少なくとも公的な場では狩野姓を名乗れる程の繋がりがあ