問いを持たないと、知識はあなたを素通りしていく。 けれども、知識がないと問いは形をなさず崩れていく。 問いと知識は、循環的因果性で結ばれている。 砕いて言えば、鶏と卵の関係にある。 問いは既に知っているところから、その「外」へと踏み出すところに生まれる。 知らなければ、問うための足場がない。 知っているところに留まるならば、問いは得られない。 人は知と無知(未知)の境界で問う。 知ることは、知識を増やすが、知と無知の境界も増やす。 しかし知識の増加に比べると、境界の増加は遅い。 球体をたとえに使うなら、体積(知識の量)が8倍(=2の3乗)増えるとき、表面積(知と無知の境界)は4倍(=2の2乗)しか増えない。 知識は問いを減らしはしない。だが、知識ほどには問いは増えない。 問うこと自体は難しいことでも、珍しいことでもない。 知りたがりの動物である人の内には、たくさんの問いが詰まっている。 し