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ブックマーク / www.asakusakid.com (3)

  • 水道橋博士のコラム「自分好みの芸人になること」

    96年7月28の日刊スポーツ「トークスペシャル」より 「この間のフジテレビの30時間テレビをやった時、 これで金をもらっていいのだろうかとつくづく思ったよ。 テレビ文化のガンは俺だなと思った。今のタレントは、 ただ座って人のやってることを適当に面白くアドリブでしゃべるだけで、 芸なんかないでしょ。 『おまえが作ったんだって』言われそうだけど、 あの手軽さを後から出てくるヤツが、みんなマネしてしまったんだな」 とは、テレビタレント、ビートたけしの言葉だ。 * 今年(1996年)の2月、 浅草の「ロックンロック」へ初めて足を運んだ。 浅草演芸ホールの隣に平成6年新装したこのレストランシアターは、 事とショーを楽しめる劇場でありながら、 演目はダンスをはさんだコントという、 昔ながらの軽演劇(もはや死語か?)を あの欽ちゃん(萩欽一)の総合演出で上演している。 僕がここへ足を向けた、お目当て

  • 水道橋博士のコラム 『女優 林由美香』

    林由美香が亡くなった。 報道によると、6月27日――彼女の35歳の誕生日の翌日――彼女の部屋から遺体が発見されたが、事件性は無く、傍らには、酒と睡眠薬が残されていたとのこと。 我々の世代にとっては、伝説のAV女優であり、俺にとっても私的な想い出もあり、実に感傷的な気分になった。 林由美香のデビューは89年、丁度、昭和から平成への端境期である。 当時は、爛熟のバブル期であり、この時代の境目に、股間の境目を晒しつつ、時代を文字通り、またいだAV女優であった。 また、彼女は、業界を席巻した “過激美少女”路線のはしりであった。 当時でもAVアイドルの寿命は、長くて2年、そうでなければ1年未満で消えていくのが大半であったが、彼女は、何度か引退宣言や引退作品はあったものの、その亡くなる日まで現役女優として業界に居続け、ピンク映画にも数々出演し、史上最高の400もの出演作を世に送り出した名女優でもあ

  • 浅草キッド・インタビュー「浅草フランス座 修行時代を語る」

    ビートたけしの軌跡に憧れて 博士 浅草フランス座での修業は、 当時、たけし軍団の恒例ではあったんだよな。 かの昔、劇場主の岡山社長がたけしさんと昔コンビを組んでいたこともあって、 そのまんま東さんとか松尾伴内さんとか、 とにかく、ずっと、たけし軍団が送り込まれてきた。 僕らが軍団に入った時期、ちょうど劇場で人手が足りないんで 「二人欲しい」と言われてた。 玉袋 俺達の軍団の同期が5人、 殿から「行きたいヤツいるか」って聞かれて、 俺と博士だけだと思っていたら全員が手を上げた。 フランス座が何たるかを知らないヤツもみんな。 博士 当時たけしさんの人気は絶頂。 おかげで、たけし軍団まで雑誌のカラーグラビアまで飾ってた。 だから、俺たちは 「このままたけし軍団の下っ端にいてもどうにもならない」と…。 玉袋 軍団だけで、既にキャラクターは十分足りていた、 バカ、チビ、デブ、ハゲ……。 俺らはキャラ

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