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形而上学と哲学に関するkobayasiyasumiのブックマーク (4)

  • 倉田剛『「現代存在論入門」のためのスケッチ』 - logical cypher scape2

    CiNii Articles 検索 -  現代存在論入門 著者が計画している『現代存在論入門』(仮題)という著書の「スケッチ」ということで、プロトタイプになるような原稿が公開されている。 普通の文章に混ざって、ヨシオ、ノリコ、タカシの会話文が挟み込まれるスタイルで書かれている*1。 序論から第九章までが構想されており、第一部では第一章と第二章、第二部では第三章と第四章、第三部ではおよそ第五章と第六章にあたると思われる部分が書かれている。 第一部 まえがき 存在論は形而上学の一部であると位置づける。ただし、形而上学の核心部分である。 何故存在論入門が書かれる必要があるのか。 (1)日語で書かれた適当な書物がないから。 (2)日で存在論というとハイデガーがイメージされることが多いが、そのような傾向を払拭したいから。 (3)哲学への手引きとして存在論がふさわしいから。 (4)存在論は、哲学と

    倉田剛『「現代存在論入門」のためのスケッチ』 - logical cypher scape2
  • コナトゥス - Wikipedia

    コナトゥス(羅:Conatus、より正確に音写すればコーナートゥス[独自研究?] 原義は努力、衝動、傾向、性向、約束、懸命な努力)は、かつて[いつ?]心の哲学や形而上学で使われた術語で、事物が生来持っている、存在し、自らを高めつづけようとする傾向を言う[1]。ここで「事物」とは心的実体、物理的実体、あるいはその両者の混合物を指す。数千年にわたって、多くの異なる定義や論じ方が哲学者によって定式化されてきた。17世紀の哲学者のルネ・デカルト、バールーフ・デ・スピノザ、ゴットフリート・ライプニッツ、トマス・ホッブズや彼と同時代の経験論者たちが重要な業績を築いている [2]。 「コナトゥス」は生物の能的な「生きる意志」を指したり、運動と慣性に関する様々な形而上学的理論を指したりする[3]。しばしばこの概念は汎神論者の自然観では神の意志と結びつけて考えられる[2][4]。この概念は定義が精神と肉体

  • 形而上学 - Wikipedia

    形而上学(けいじじょうがく、英: metaphysics)は、感覚ないし経験を超え出でた世界を真実在とし、その世界の普遍的な原理について理性(延いてはロゴス)的な思惟で認識しようとする学問ないし哲学の一分野[1][注釈 1][注釈 2]。世界の根的な成り立ちの理由(世界の根因)や、物や人間の存在の理由や意味など、感覚を超越したものについて考える[2]。対する用語は唯物論[1]。他に、実証主義や不可知論の立場から見て、客観的実在やその認識可能性を認める立場[1]や、ヘーゲル・マルクス主義の立場から見て弁証法を用いない形式的な思考方法[1]。 形而上学は、PubMedにおいては、哲学の一分野で、存在の性質(オントロジー)と宇宙の起源と構造(宇宙論)を含む第1原理を取り扱うものとしている。 概要[編集] 形而上学は、哲学の伝統的領域の一つとして位置づけられる研究で、歴史的にはアリストテレスが「

    形而上学 - Wikipedia
  • なぜ何もないのではなく、何かがあるのか - Wikipedia

    「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」(なぜなにもないのではなく、なにかがあるのか、英: Why is there something rather than nothing?)[注釈 1]は、哲学の一分野である形而上学の領域で議論される有名な問題の一つ。神学や宗教哲学、また宇宙論の領域などでも議論される。なぜ「無」ではなく、「何かが存在する」のか、その理由、根拠を問う問題。別の形として、 「なぜ宇宙(または世界)があるのか?(Why is there a universe(world)?)」 「なぜ無ではないのか?(Why not nothing?)」 「なぜそもそも何かが存在するのか?(Why there is anything at all?)」 などと問われる場合もある[注釈 2]。 物事の根拠を「なぜ」と繰り返し問い続けることでやがて現れる問いであることから「究極のなぜの問

    なぜ何もないのではなく、何かがあるのか - Wikipedia
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