中国人の職種としては、大工・石工・鍛冶、それに苦力が多かった。 1928年2月〜3月の『朝鮮新聞』は、新義州から陸路で朝鮮に入ってきたり、仁川から海路で芝罘・威海衛・大連などから中国人労働者が続々と朝鮮に来ていて、「中国人と朝鮮人間の労働問題」となる懸念があると報じている。 これら中国人の流入労働者のほとんどは、朝鮮内の各地方の労働現場へ向かったが、京城及びその近郊に流れ込む労働者も少なくなかった。1929年5月10日の『大阪朝日新聞』はこのように伝えている。 日本による朝鮮総督府を通じた植民地統治と侵略政策が、社会経済的矛盾を生み出していたにもかかわらず、日本のマスコミと統治機関は、廉価の労働力「支那人」と「朝鮮労働者」の対立が勝手に起きているがごとき認識であった。その対立において、日本があたかも仲裁者・調停者のごとく振舞うことで、さらなる膨張と侵略に利用しようとさえした。 中国東北部で