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湯浅誠に関するkojitakenのブックマーク (12)

  • 湯浅誠さん:「ヒーロー」に委ねてはダメ 市民活動仕掛け人、動く 大阪に拠点- 毎日jp(毎日新聞)

    ◇変えたいのは有権者心理 反貧困運動の活動家で元内閣府参与の湯浅誠さん(43)が、主な活動拠点を東京から大阪に移し、市民活動の仕掛け人として活躍している。21日発売の著書「ヒーローを待っていても世界は変わらない」(朝日新聞出版)で、強いリーダーシップを発揮する政治家の人気など「大阪で顕在化していることは、もはや日全体の傾向」だと分析し、大阪発で「民主主義を活性化させたい」と、初めて東京以外で活動する理由を明かしている。【鈴木英生】 湯浅さんは、東京都出身。東京大大学院法学政治学研究科在学中から、ホームレス支援などにかかわってきた。08年末〜09年年頭の年越し派遣村村長として知られた。政権交代後に務めた内閣府参与を今年3月に辞め、動向が注目されていた。 同書は、近年、有権者が自ら政治を考える余裕を失い既得権益層を敵と名指しして成敗する「ヒーロー」型政治家が人気を集めているとする。代表格が小

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    kojitaken 2012/08/21
    湯浅誠氏の健闘に期待。橋下はくたばれ
  • 湯浅誠の声明とインタビューへの違和感 - 紙屋研究所

    湯浅誠が内閣府参与辞任について述べた言葉や、 湯浅誠からのお知らせ: 【お知らせ】内閣府参与辞任について(19:30改訂、確定版) それをめぐって受けたインタビューに違和感がある。 特集ワイド:内閣府参与を辞任、湯浅誠さん 「入って」みたら見えたこと - 毎日jp(毎日新聞) もともとの意図を考えるとうなずけるものはある もともと、湯浅の辞任の言葉は誰に、どんなつもりで言った言葉なのかを考えながら読むといいと思うのだが、まず彼が内閣府参与になったことで政府の犬になったとか、梁山泊の末路状態みたいな受け取られ方をしたことに対して向けられた言葉ではないかと感じる。 湯浅が自分の掲げた要求や理想モデルのために、政府に参画すること自体は、十分にありうることだと思う。ぼくのような左翼だって、自分たちの言っていることを実現するために、部分入閣するなんて有り得る話だし、中央政府だけでなく、地方政治でもい

    湯浅誠の声明とインタビューへの違和感 - 紙屋研究所
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    kojitaken 2012/04/02
    納得できる湯浅誠批判。
  • 【お知らせ】内閣府参与辞任について(19:30改訂、確定版)

    ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 内閣府参与辞任のご報告 (19:30改訂、確定版) 2012年3月7日 湯浅 誠 このたび、内閣府参与を辞任することになりましたので、ご報告します。 辞任は二度目になります。最初は2009年10月26日に任用の辞令交付を受け、2010年3月5日に辞任。 その後、同年5月10日に再任用され、今日に至りました。その間、総理大臣は鳩山由紀夫、菅直人、 野田佳彦の3氏に亘りました。また、私の直接のアドバイス先である内閣府の経済財政担当大臣も数 多くに及びましたが、経済財政担当大臣付の参与だったのは、私に声をかけた菅直人さんが当時その 任にあったからです(参与職は内閣府にしかない)。政策的には厚生労働省の所管事項が多かったで す。 ● 経緯 2010年5月に再任用されたのは、同年3月の辞任時に提案していた複合的な困

  • 世に倦む日日 湯浅誠の参与辞任説明 - 私ならどう官僚の酒光一章を動かしたか

    先週(3/5)、湯浅誠から内閣府参与辞任について説明した文書が公表された。同時に、菅直人が湯浅誠の辞表を受理した件もマスコミの報道で伝えられた。NHKスペシャルの放送から5日経ち、ようやく辞任が公式に確定したことになる。NHKの番組が最後に説明していた話、すなわち、菅直人が湯浅誠に対して慰留の説得を続けていて、湯浅誠が2/28時点でも態度を保留していたというナレーションは誤りではなかった。私は、3/1の記事で、湯浅誠は国民にわかりやすく事情を説明すべきだと主張していたので、この説明文の公表は悪くない。ただ、1/29の辞意伝達から2/28の特集放送まで1か月も時間を要し、その間に菅直人と具体的な折衝があったはずだが、話し合いの中身について何も言及、開示されていない。その点が不十分に感じる。また、辞任の理由について、公表文では「当初予定していた一連の取組みが終了した段階」に至ったからという説明

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    kojitaken 2010/03/14
    "ネットの世界でも、昨年、湯浅誠と同席して酒を飲んだという自慢話をBlogで吹聴する者が絶えなかった。" これって喜八のことだね → http://kihachin.net/klog/archives/2009/06/komorebi5.html
  • 湯浅誠:内閣府参与辞職にともなう経緯説明と意見表明

    ■反原発及びメディア系サイト 原子力資料情報室・たんぽぽ舎・岩上チャンネル(IWJ)・福島事故緊急会議・OurPlanet-TV・経産省前テントひろば・フクロウFoEチャンネル・田中龍作ジャーナル・UPLAN動画・NO HATE TV・なにぬねノンちゃんねる・市民メディア放送局・ニュース打破配信プロジェクト・デモクラシータイムス・The Interschool Journal・湯雅典HP・アリの一言・デモリサTV・ボトムアップCH・共同テーブル・反貧困ネットワーク・JAL青空チャンネル・川島進ch・独立言論フォーラム・ポリタスTV・choose life project・一月万冊・ArcTimes ■戦争法反対関連 総がかり行動・市民連合 ●「太田昌国のコラム」第87回(2024/2/10) ●〔週刊 の発見〕第335回(2024/2/22) ●「根津公子の都教委傍聴記」(2024/2

  • 湯浅誠氏が示す保守と中庸の感覚 - hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)

    『東洋経済』最新号は、左の表紙のように「崩れる既得権 膨張する利権」で、これはこれで大変興味深いものですが、ここでは、湯浅誠氏と城繁幸氏の対談がいろんな意味で大変面白く、取り上げたいと思います。 世間的には、湯浅誠氏と言えば、左翼の活動家というイメージで、城繁幸氏と言えば、大企業人事部出身の人事コンサルで、保守的とお考えかも知れませんが、そういう表面的なレベルではなく、人間性のレベルで見ると、なかなか面白い対比が浮かび上がってきます。 >横断的な労働市場を作ることは同感です。それを妨げるものとして、中途採用に消極的な企業や企業別組合、人材育成能力のない派遣業者などの問題があることも理解できます。ただ移るには環境を整えないと無理。第2のセーフティネットもうまくいきません。 >城さんの考えでは諸悪の根源は解雇規制ということになるわけだ。私もフレクシキュリティ政策は評価しますが、それは失業しても

    湯浅誠氏が示す保守と中庸の感覚 - hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)
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    kojitaken 2009/11/03
    これは週刊東洋経済を買わなきゃいかんな
  • asahi.com(朝日新聞社):「反貧困」の湯浅氏、内閣府参与に - 政治

    菅直人副総理兼国家戦略相は27日、反貧困ネットワーク事務局長の湯浅誠氏(40)と、帝京平成大専任講師の宮崎徹氏(62)を内閣府参与に任命したと発表した。ともに非常勤で、湯浅氏は年末に向けた緊急雇用対策に携わり、宮崎氏はマクロ経済政策で助言する。  湯浅氏は当初、国家戦略室の政策参与での起用が固まっていたが、菅氏は「雇用、貧困という問題の限定的なお手伝いなので、内閣府が適当だろうとお願いした」と説明。宮崎氏は複数のシンクタンクで研究員を務めた経歴があり、大学と兼務で週3日程度勤務するという。

    kojitaken
    kojitaken 2009/11/03
    この人事に刺激されて湯浅誠をdisっているのが池田信夫センセ。http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51303955.html
  • 時代を駆ける:湯浅誠/5止 活動の意義、広く伝えたい - 毎日jp(毎日新聞)

    ◇MAKOTO YUASA <03年に大学院をやめたころは今のように著書の印税や講演料収入もなく、月収数万円で生活していた> 大学院時代は、奨学金頼みの生活でした。多少の蓄えはありましたが、退学すれば、そのお金が入ってこなくなります。路上で生活する人の支援活動をしてえるようになっていくか、塾の先生でもやって生活を安定させた上で活動するかで迷っていました。 でも、路上で暮らしながら活動している仲間は、炊き出しに行ったり、段ボールを集めたり、それなりに忙しいのに、自分の時間を犠牲にしているんです。だから、自分だけ収入を確保して一緒に活動するのは、どうしても居心地の悪さが残ります。それで、活動に専念することにしました。 03年に、職や住まいを失った人たちと一緒に引っ越しや片づけの仕事を請け負う「便利屋」を始めました。ともに汗を流し、自分もみんなも収入が増える。そんなに稼げたわけではありませんが

  • 時代を駆ける:湯浅誠/4 学者あきらめ、東大を去る - 毎日jp(毎日新聞)

    ◇MAKOTO YUASA <政治学者を目指して96年に東大大学院に進んだが、父正治さんが病に倒れた> 博士課程の2年目まで、研究と路上での活動を両立できていたと思います。ところが、99年の暮れに、父にがんが見つかって、年明けに大手術をしました。当時、東京の東大和にあった実家を出て、練馬に住んでいたんですが、呼び戻されて母(尚子さん)のサポートをすることになったんです。 勉強と路上での活動と母のサポートの三つは、さすがにできません。活動には仲間がいるし、たまに行くと路上にいる人も「久しぶりじゃねえか。もうちょっと顔出せよ」と声を掛けてくれるから、やめようとは思いませんでした。でも、研究は基的に1人だから、どうしても後回しになります。01年に父が亡くなった後も、大学からはなんとなく足が遠のいてしまいました。 <大学院をやめることになった。そのときの恩師の言葉が忘れられない> 03年に博士論

  • 時代を駆ける:湯浅誠/3 障害者の兄との生活、原点 - 毎日jp(毎日新聞)

    ◇MAKOTO YUASA <3歳年上の兄郁夫さんは、進行性の筋萎縮(いしゅく)症を患う重度障害者。幼いころ、兄の車いすを押しながら、周囲に特別な目で見られていると感じていた> 東京の小平に住んでいた小学生のころ、歩いて7~8分の養護学校まで兄を迎えに行き、車いすを押して帰ることがありました。大通りを通れば1回曲がるだけで家の前に着くんですが、兄は平屋の公営住宅の間を抜ける、くねくねした道をあえて選ぶんです。 3年か4年生の時、兄の希望を聞かずに大通りを選んでしまい、口論になった記憶があります。来は介助者がそんなことをしてはいけないんでしょうが、兄に対して「もっと堂々とすればいいじゃねえか」と反発していたんです。家に帰ると、兄は母に「もう誠に送り迎えしてほしくない」と訴えていたように思います。兄にすれば「なんでオレの言うことを聞かないんだ」という気持ちですよね。 通りすがりに、じろじろ見

  • 時代を駆ける:湯浅誠/2 貧困は自己責任ではない - 毎日jp(毎日新聞)

    ◇MAKOTO YUASA <01年、生活に困窮している人たちの自立を支援するために「もやい」(東京都新宿区)を設立し、アパート入居時の保証人になったり、生活保護の申請をサポートしている。もやいの名は船と船をつなぎ合わせることを意味する「舫(もや)い」から取った> これまでに1000人を超える人の生活保護の申請に同行しました。福祉事務所に行くと、申請をさせたくない職員にあれこれ言われますが、ほとんど口は挟みません。最初に生活保護を「取ってもらった」と思うと、その後も応援に頼ってしまう。でも、一生付いていてあげることはできないし、どこかの段階から人が頑張るしかないんです。だから、自分で申請して取ったという形を残してあげたい。それが、こだわりです。 制度に詳しい人が同席していれば、職員もよほどのことがない限り申請を拒めません。いつも人の隣に黙って座り、ちゃんとやり取りを聞いてますよと、オー

  • 時代を駆ける:湯浅誠/1 派遣村、あふれる人波「やるしかない」 - 毎日jp(毎日新聞)

    ◇MAKOTO YUASA <09年の正月、東京・日比谷公園に開設されていた「年越し派遣村」は、約500人の失業者や路上生活者であふれ返った。収容しきれない人々を前に、村長を務めた湯浅さんは宿泊場所を確保するために奔走した> 正直に言うと、とんでもないことになったと思いました。緊急避難場所が必要になり、開村3日目の1月2日に、副厚生労働相の大村秀章さんに携帯電話を掛けて「このままでは日比谷がテントで埋まるよ」と伝えたんです。そんなことは、戦後の混乱期以来なかったはずです。大村さんに「なんとかする」と言われましたが、いろいろな案が浮かんでは消えていきました。 民主党部や議長公邸という話も出ましたし、社民党部の入る社会文化会館、共産党の地区の会館という案もありました。細い一の線をたどるというより、あちこちから話があり、整理するのが大変なくらい、何も線が伸びてきた感じでした。現場の切り盛

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