『沈黙』とは「声」をめぐる映画です。正確に言うなら、ここでいう「声」とは「神の声」のことであり、この視点から見れば、この映画は二種類の「神の声」を取り違えてしまうことによる悲劇であると言うことができます。二種類の「神の声」とは、「踏み絵を強制されたロドリゴが聴く神の声」と、もうひとつは「十字架に架けられたモキチが息も絶え絶えに歌う讃美歌」です。 踏み絵を強制されたロドリゴが聞く神の声は、世界のあまりの残酷さの中で狂気に陥っていくロドリゴの幻聴なんですね。つまり、神は最初から最後まで「沈黙」したままです。神の声が自分の幻聴であると知ってしまったからこそ、彼は死ぬまで、今度は彼自身が沈黙を貫くことになってしまった。彼にとって祈りとは神の声を聴こうとすることであり、それが困難であればあるほど彼の信仰は深くなるわけですが、しかし、彼は「神は沈黙する存在である」ことを決定的に知ってしまった。神父の彼
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