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ブックマーク / www.kyoto-seika.ac.jp (1)

  • 中尾ハジメ『スリーマイル島』

    スリーマイル島の事故を知ったのは1979年3月29日の朝だった。「放射性蒸気漏れる米の原発 冷却水ポンプが壊れ」という見出しの短い記事が朝日新聞朝刊の第一面にあった。記事は小さかったが第一面にあることで異例であり,最大級の深刻さを意味していた。私たちが日でこの朝刊をよんでいる時刻は,ペンシルバニアの現地では事故発生一日目,3月28日の午後だった。現地では晩になって家にかえってはじめて事故のことを知る人たちも少なくなかったのだから,奇妙な感じにとらわれてしまう。 その日の夕刊で,ということは現地は28日の夜中という時刻なのだが,各紙とも最大級の扱いをはじめた。朝日は「炉心破損の疑い 五百人汚染の恐れ 安全装置作動せず 十キロ先でも放射能」,毎日は「史上最悪の原発事故に 冷却水漏れで拡大 従業員が放射能汚染か」,読売は「核燃料とけ出す」という大きな見出しをのせた。多くの人たちが事故三日日の3

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