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ブックマーク / bakuhatugoro.hatenadiary.org (4)

  • ぼうふら漂遊日記 - 「わしズム 21号」と『日本沈没』(旧作)

    去年の紅白をきっかけに、最近やたらと有線で流れるようになった「千の風になって」とかいう歌が嫌だ。 自分の身近な肉親の死に方やその心情を考えた時、ここで歌われている「千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています」だの「冬はダイヤのように きらめく雪になる」だのといった絵ヅラが、文字通りマンガにしか感じられない。 自分の身近な人間が、ありふれたつまらない人生を、人に気にされることも無いすすけた場所で、孤独に生き孤独に死んだのだとしても、だからこそそうした退屈さやつまらなさを彼のただひとつの真実として受け止め、覚えていたいと自分は思う。 自分達は、ここで歌われているような美しく大きな流れの中で、それを自分の世界だと肌で感じるような生き方などしていない。とっくの昔に根無し草だ。 だから、『やくざの墓場 くちなしの花』の「うちは日人でもあらへん。朝鮮人でもあらへん。ハーフでもあらへん。うちは

  • 中上健次と松田優作 - ぼうふら漂遊日記

    中上健次は、自分にとって長い間位置づけの難しい作家だった。 小説、特に初期から中期にかけてのものには、好きとか嫌いを超えて、とにかく圧倒される。 センテンスの息が極端に長いかと思えば、単語ごとに句点を打ち、小刻みに呼吸しているようなところもある。 単語の選び方がこれ見よがしに大袈裟だったり、そのひとつひとつはベタで不器用なようでいて、大袈裟さや不器用さも含めて「これしかない!」と思えるような、内容と文体が一体になった、塊のような存在感。 何かをまっすぐに伝えることが出来ず、その言葉にならない何かの周りを描写がぐるぐる回っているような小説を書かずにいられない、桎梏の重さと複雑さ。 中上健次より好きな作家や、自分にしっくりくる作家は他に何人もいるが、自分が読んだ中で一番「凄い」と感じた小説は、迷うことなく「枯木灘」だと断言できる。 ただ、同時にエッセイや対談などで読む中上は、俺にはかなりかっこ

    中上健次と松田優作 - ぼうふら漂遊日記
  • スタジオジブリと村上春樹 - ぼうふら漂遊日記

    ガルシアの首君へのコメントに加筆、UPしました。http://d.hatena.ne.jp/headofgarcia/20060322 村上春樹の当時の「打ち出し」には、全共闘に限らず、ある場が逆らいがたく一色に染まってしまうような脅迫的な空気に対して、個人的な趣味性や感覚を対置したってところがあった。けれど、彼や彼の支持者がそうした「空気」からしっかりと距離を取れるような強靭な「個」を何を根拠に築けたかというと、これは思いっきり怪しい。 そして、その後どうなったかというと、日的な、あるいは全共闘的な「滅私的ストイシズム」を批判する一方、市場経済や消費社会を前提にした個人主義→ミーイズムへの自己完結を、誰も批判できなくなってしまった。消費者としての自分、趣味人としての自分がセルフアイデンティティになってしまって、誰もが自分を社会の連なりの中の当事者として認識することを逃げるようになってし

    スタジオジブリと村上春樹 - ぼうふら漂遊日記
  • たけしとジブリ - ぼうふら漂遊日記

    >彼のまとっている「リアルな貧しさ」が、当時の自分にとってはあまりにも日常の風景でありすぎたからだ。http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20060217 以下は、『HANA-BI』のベネチア受賞の便乗企画で出た『コマネチ!』に中野翠が寄せている一文、『やっぱりなんだか、変な人 テレビの中のたけし論』より。 「何と言っても、たけしを中心にタレントがゾロっと居並ぶ、あの絵面が厭だった。あのグチャーッ、モアーッ、デレーッ、とした空気(なあんて。他にもっとプロっぽく気の利いた形容はできないものだろうか)がたまらない。特に『元気が出るテレビ』の、お揃いのトレーナーを着こんで「社長」、「部長」と呼び合う、あの同族会社感というかファミリー感になじめなかった。」 「昔ながらの質実な美意識やモラルも失ない、フワーッと浮き足立って、メディアの祭りに乗せられている人びと。つねに

    たけしとジブリ - ぼうふら漂遊日記
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