おれが芝浜に救われた話はこれまでに幾度か記した。 23くらいのときに失語症にかかってそいつが自律神経失調症を連れてきた。大学院のときだ(1997頃)。所在なくて、寄席に通った。歌丸師匠の「火焔太鼓」を聞いたのもそのときだ。 だれだったか、芝浜を演ってた。例のサゲを聞き終えて、おれは「うん」とつぶやいた。新宿三丁目、末廣の端っこのほうの席で、座布団に涙がぽたぽたと落ちてきた。帰ってきて、何だったか、落語全集の芝浜を探した。いうまでもなくそれは三木助で、おれは飽きるほど三木助の芝浜を聞いた。芝浜をなぞることでおれは言葉を取り戻した。 「夢」「現」ゆめとうつつ、その鮮やかな対比はそのころ読み始めていた近松や世阿弥も触れていたと記憶する。リアリティなんてものはないと思う。あるにはある。けれどそれはノンフィクションの横並びにあるものとは違う。作り話でも、作り話であることを忘れさせるのがリアリティ(の
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