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ブックマーク / kenmogi.cocolog-nifty.com (5)

  • 茂木健一郎 クオリア日記: 真摯にして曇りのない自己批評文

    それにしても、綱渡りの一日だった。 朝起きたとき、こりゃダメだ、と 思った。 やるべきことと時間の間尺が 合わない。 アポイントのどれかをさぼりたい気分に なった。 しかし、結局さぼらなかった。 移動しながら資料を読み、 タクシーの中でキーボードを打ちまくる。 自分でも奇跡ではないか! というような集中力で、気付いたら なんとかこなせていた。 こんな日もあるものだ。 午前、電通で研究会。 話を聞き、議論をしながら 手元はずっと動いている。 これは苦しい。苦しいが楽しい。 東京芸術大学。 大浦堂横のテーブルで 二件ミーティング。 ミーティングの合間に、 仕事を送信。 うーん、タイト。 やっとたどり着いた美術解剖学授業。 二つのことを考えたかった。 ひとつは、無限とか断絶とか、そういった どうしょうもないことを前にした 感情の働きについて。 芸術とは何か、ということを 考えたとき、どうするこ

  • 茂木健一郎 クオリア日記: 文脈の自由、偶有性の空間。

    筑摩書房の増田健史と一緒につくった「脳」整理法 は9月4日発売予定で、アマゾンではもう予約 が始まっている。 増田健史の発案でこのには「著者近影」 を含めさまざまな面白い仕掛けがしてあるので、 ぜひ手にとってくださったらと思う。 最初は手軽なノウハウになる予定だった このだが、書いているうちに、やっぱりと いうか、ずいぶんシリアスなものになってしまった。 この中で、「国家」のような公共的概念が、 その来の「偶有性」(どのように変化 するか判らないこと)を失って、 大文字の固定的な概念になってしまう ことの危険性を論じている。 「日」という国家だって、「日人」 というくくりだって、来起源においても 未来の行く末においても偶有的なもので、 それを固定化してそれに固執する メンタリティーが、多くの災厄をもたらしてきた。 国境だって、偶有的である。 それを固定化してきっちり決めようと

    ktaka
    ktaka 2005/08/29
  • 茂木健一郎 クオリア日記: アウェーの戦い

    7月10日から英文のblogをずっと 書き続けている (この日語による「クオリア日記」の最後に いつもリンクを付けている)。 手間がかかると、言っても、私は書くのは 早いので(ほとんど物理的にタイピングする 時間しかかからない)それほど負担でもないのだが、 このような面倒なことを始めたのは ある危機感と決意がある。 危機感というのは、昨今の日の状況である。 著名な、尊敬すべき出版社からも、特に 雑誌を中心として、目をおおいたくなるような 下品な見出しの記事が出版されている。 それが、特に近隣諸国に対する罵詈雑言 であるときには、 著者の見識を疑うとともに、 「どうせ日語で書いているんだから、 日人しか読まないじゃん! おまえら 内弁慶でズルイよ」 と思うのは自然なことだろう。 ホームじゃなくて、アウェーの戦いをしないと、 面白くない。 このところ、自分のホームに引き込んで、 ぴぴた

  • 茂木健一郎 クオリア日記: あすへの話題 モーツァルト問題

    あすへの話題 モーツァルト問題 脳科学者 茂木健一郎 モーツァルトと言えば、数々の名作を残した天才作曲家である。その音楽は天上の美しさを秘めているが、作曲した当人は、冗談好きの、至って落ち着かない人間だったようである。 「何故こんな下品な男があれほど美しい音楽を書けるのか」と、同時代の人がショックを受け、それが証言として残っている。映画『アマデウス』でも、作曲家サリエリがモーツァルトの人物と作品の差に思い悩む様子が描かれた。 天才的な人物は、往々にして作品と人の間にギャップがある。これを、「モーツァルト問題」と呼ぼう。脳が新しいものを生み出す仕組みの秘密が、そのギャップの中にありそうである。 人物と作品の乖離は、モーツァルトに限ったことではない。静謐な作品を書く作家が、実際に会うと豪快な人物なのでびっくりしたことがある。かえってそのくらいの方が信用できることが多いようだ。 なぜ、人物と作

  • 茂木健一郎 クオリア日記: 科学の恵み

    ktaka
    ktaka 2005/05/23
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