先日、必要があって大岡昇平の「野火」(新潮文庫)を20年ぶりぐらいに読み返した。やはり、私の小説観は、こういった小説によって形作られているなあと感じる。呪いの言葉を知ってしまったようなこの胸騒ぎこそが、小説だと感じるのだ。 で、文庫の解説は、吉田健一が昭和29年に書いたものだった。吉田健一は、「大岡昇平氏の作品を読めば読む程、日本の現代文学に始めて小説と呼ぶに足るものが現れたという感じがする」と書き出している。あれ、俺が思っているのと同じようなことを言っているな、どういうことだ? と思って読み進めると、要するに私小説批判なのだった。日本のとある小説がアメリカで紹介されたら「すぐれたエッセイだ」と褒められた逸話を紹介し、「例えば島崎藤村が書いたようなものが小説で通るならば、あまり理屈っぽいことを言いさえしなければ大概何でも小説であっていい訳で」と手厳しい。 我ながら驚いたことに、ほんの20年
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