2024年2月19日のブックマーク (2件)

  • 休日に開く本=佐野洋子/光野桃/山田太一。 - 言葉と記憶の小径。

    洋子さんの「100万回生きたねこ」を初めて読んだのは、40年以上も前のことである。安アパートでの学生生活は貧しかったが、住んでいたのは港の見える丘公園まで徒歩20分の閑静な住宅街。山手の通りもドルフィンも休みの日の散歩コースだった。 しかし、現実といえば、山下埠頭のバイトで座骨神経痛になって、痛い足を引きずりながらバイト先と大学を行ったり来たり。未来なんて、どこにあるんだろう。そんなことばかり考え、呆けた日々を送っていたとき、ある人にいただいたのがこの。100万回生きても、いのちはいつか、終わるんだと思ったら、途端に、泣けてきた。 エッセイ集を読むようになったのは、洋子さんが亡くなってからだ。乳がんだったが、洋子さんは死ぬ気まんまんだった。でも、ほんとは100万回ではなく、あと1回くらいは生き直してやろうと、考えていたかもしれない。それとも、すでに、ねこに生まれ変わって、そこらを散歩して

    休日に開く本=佐野洋子/光野桃/山田太一。 - 言葉と記憶の小径。
    kyokoippoppo
    kyokoippoppo 2024/02/19
    佐野洋子の文章、そして山田太一の作品も大好きです。 『異人たちとの夏』は、原作、映画双方大好きです。
  • ひとつ間違えば私の青春時代も道を違えていたかもしれない - 退職老人 ここだけの話

    今朝の朝焼け。当時はやった岡林信康の『友よ』の歌詞「夜明けは近い」を思い出す。 1974年~75年のビル爆破事件の桐島聡容疑者が名乗り出て、そして亡くなった。 当時から交番や駅、理髪店などいろんな所へ重要指名手配犯の顔写真の一覧表が貼ってあった。 桐島容疑者のぎょろ目と黒縁の眼鏡をかけた顔は一度見たら忘れられない写真だった。 しかし、50年間日社会の片隅で逃げ延び、臆することなく居酒屋やスナックに出入りして、人気者であったという。 私の大学時代は1967年から始まった。 特別奨学金8000円で暮らす苦学生で、アルバイトで生活費の不足を補った。 当時の地方の大学では学生運動への参加は一般学生にとって普通のことだった。 週末には学生自治会が主催するデモ行進が普通に行われ、いつも50人前後の学生が市内をデモ行進していた。 私はアルバイトの合間に時々参加していた。 クラス討議は政治の問題が中心だ

    ひとつ間違えば私の青春時代も道を違えていたかもしれない - 退職老人 ここだけの話
    kyokoippoppo
    kyokoippoppo 2024/02/19
    びっくりたまげる記事でした。連合赤軍の総括の犠牲者とお知り合いだったとは…。政治を批判し行動を起こす。あの時代はそれが真っ当な若者の在り方だったと信じられていたのでしょう。とても貴重な記事!