「価格交渉するくらいなら、とりあえず使ってもらう方がいい」 無名のSaaSが“売れるサービス”になった必然と真価
学校、超好きだったすよ。お昼くらいに行ってたけど。よく掃除の時間に着いて、友達と「もう終わりじゃん!」「まだ終わってねえよ」ってやり取りをしてました。掃除しないんですけどね。 で、遅刻が多すぎた数人が毎月呼び出されて反省文を書かされる。一貫して「時間に対する概念は絶対的ではない」ということを説いた。国や歴史によって「時間観」は違った、今の日本のそれは局所的なものだ、とか何とか。毎月色んな角度から書く。反省文ていうかエッセー。先生、折れますよね。めんどくさすぎるでしょ、そんな生徒。 県立だから、退学っていう伝家の宝刀が使えない。退学があったら、急にこっちの立場弱くなりますよ。高校、ふつうに出たいじゃないすか。大学も行きたいし。■高校にランドセル、「コンテンポラリーアート」 放課後は町に行く。歩いて10分くらいの徳島駅前。ほかの高校のやつらもいて、「ようよう」ってやるだけ。何が楽しかったんだろ
日本人は"客観的"になれない 宇野(以下、宇):猪子さんはよく「日本的想像力とネットは親和性が高い」と言ってますよね。どうしてそう思うのでしょうか。 猪子(以下、猪):うーん、うまく説明できないかもしれないけど、具体的な話から超上位概念まで徒然に話すね。抽象的なことから言えば、欧米の人たちは、世界は客観的に捉えることができると信じていた。だからこそ自然科学も発達したし、産業革命後の大量生産・大量消費社会とすごい相性がよかった。マスメディアともきわめて相性がよかったと思う。 一方で日本人は、世界を客観的に捉えることができないと思ってきた人々だと思います。たとえば議論でも日本は白黒はっきりとつけられないし、「まぁまぁまぁ」「それでは田中さんの顔を立てて……」みたいなことが多い。また、物語でも西洋では客観的な正義があって客観的な悪を駆逐して秩序を守るようなものが多いけど、日本だともうちょっと立場
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