失礼なことを言われたときとかに、「なんだこいつ」という驚きが先行してしまって、憤りを表明するタイミングを逃す。 別に怒りに任せて声を荒らげたりするのが良いと思っているわけではなくて、その場で言葉と表情で憤りを伝えたい。 何かコツみたいなものあるだろうか。
一つの仮説に至った。 そこまでの経過を記載するのは、まるで自分の恥を公開するようだが、何だか書き記して公言しておいたほうがよい気がするのでそうする。 結論から言えば、「忘れられない悲しみは忘れずに、辛い時は辛いこととして、その感情に身を委ねる」ということだ。似たような言葉を聞いたとき、気休めのような感覚で受け取っていた。しかし、よく考えればこの言葉には自分にとって、深い意味があることに気づいた。「あきらめ」と似ているが、少し異なる。それは、「自分の感情を承認する。認める。受け入れる。共に過ごす」ということだと思う。そして、その負の感情に、自己に、「執着」しないということが重要なのだ。 自分にとって「生きる」ということは、いつの頃からか、「苦しみを我慢すること」だった。 そしてきっと今でもそうだ。なので、常に「救い」を求めていた。きっと何らかの「救われる方法」があるはずだと信じていたし、過去
いつだったのか、どこだったのか、全然定かじゃなくて申し訳ないんですけども、何かのドキュメンタリー番組を見まして、それに対していたく感動したので、いろんな人にその内容を説明しようとしたのですけど、説明しているうちに途中でどうしても泣いてしまって話の続きが出来なくなっちゃうというのがありまして。 話してるうちに感極まって涙がこぼれてくるので、その先はもう話せなくなるのです。これは困る。いい年ぶっこいた中年ジジイがいきなり説明中に泣き始めるとか、普通にホラーです。でもこうやって、ネット上で書く分には、書いてる最中泣いてても誰にも見られないので、皆さんに説明してみる。 盲導犬っているじゃないですか(じゃないですか話法)。彼らって、うちらが思っている以上に超重労働なんですってね。まずもって寿命が短い。仕事がハードすぎるので長生きできないんだそうですよ。ほいで、犬が高齢になると、とてもじゃないけどハー
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