紀州熊野の豪族。はじめ佐野に住んだが 長禄の頃に全龍寺の地に館を構えたという。館の回り五町余り、四方に堀を設けて城となし、堀の東にも屋敷を構えた、東西一丁の外にも砦があった。この城搆えから人呼んで掘の内殿といい、やがて堀内を名字にしたと伝える。 家伝によると「左大臣実頼公の苗裔、実方中将の末葉教真を堀内と称す。後白河院の御宇に、はじめて熊野別当職に補せらる。教真、源為義の娘立田原姫を娶り、その後、為義、教真と対面の時、蛛切と云う剣を教真に与う。その後、治承年中に教真の嫡子 別当堪増、この剣を源義経に返し与う。氏虎は、その的裔なり(寛永系図)」とある。 また、清和源氏新宮氏説もある。すなわち、源為義の子備前守行家の子孫が堀内氏を名乗ったというものだ。 新宮社地を領し、南北朝期は熊野水軍として南朝方に属し、室町期には畠山氏の被官となる。熊野は背後の紀伊山地から良質の船材を産し、天然の良港にも恵