一、沼の目覚めたあとで 印旛沼はいまや自由に姿かたちを変える生き物だった。まるまるひと月降り続けた長い雨のあと、ところどころにくびれふくらんだ沼の形は鼻先の長い飢えた野犬のようだ。 田沼意次公が着手し、長い歴史をかけて完成した干拓工事によって、沼は長らくおだやかな眠りについていたはずだった。けれどもあの忌まわしい関東地獄によって大地が裂け、堤防が決壊し、沼はぐずぐすと音を立てて本来の老獪さを取り戻した。猛々しい本能に目覚め、そこに暮らす人間たちに忍び寄り不意打ちを喰らわせては楽しんだ。 印旛沼が暴れだすと、サイレンがうなりをあげる。住民は着の身着のまま、貴重品を詰めたリュックサックをかついで公民館や小学校の体育館に避難し、ロウソクや懐中電灯の灯りのもと、そこで幾晩も夜を明かすことになる。 これは季節ごとの恒例行事のようになっていた。運が良ければ床上浸水、悪ければ家が淀んだ沼の底に沈んだ。も
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