聖書通読ブログヨブは、ビルダデの意見を受け入れている。おかしいと思うところがあるのに反論できずに言い負かされてしまったようなみじめさがあるのではないか。確かに神は義しい。しかし、だからといって自分に罪があるとは思えない。いや、自分がわからない(21節)。自分がどんな罪を犯しているのか。罪とも思わずに罪を犯しているのか。実に神経がまいってしまうようなことではないだろうか。 ヨブの気持ちの中には、自分は自分を見失ってはおらず、自分に間違いはないという確固たる思いがあったのだろう。しかしあるいは自分が自分を見失っていることもあるかもしれない。ただその可能性は薄い。私は間違っていない。では、どうして私は責められるのか。ヨブは、二つのことを神に訴えている。 第一に、人は神と争うことはできないということ(1-13節)。誰が神に逆らうことができようか。神は、神であって人ではない。神と人との間には大き
黙示録の最終章、聖書の締めくくりは神の都のいのちに溢れる様です。都の大通りにはいのちの川が流れ、両岸にはいのちの木があって、毎月実がなり、その木の葉は諸国の民をいやした、と[1,2] 。 すぐに気付くのは、創世記のエデンの園です。そこにも一筋の川が流れ、園を潤し、その中央にはいのちの木が生えていました<創世2:9>。アダムもエバも取って食べ、より優れたいのちを得ていたはずでした。 そうです。黙示録は結局あのエデンの園に通じていたのです。人は堕落により園から追放され、いのちの木から遠ざけられました。実に無念です。しかし、主なる神は、そのエデンの園に至る回復の道を、イエス・キリストにあって用意してくださっていたのです。 いいえ、単なるエデンの園の回復ではなく、それ以上です。天国には夜がありません。「善悪の木からは食べてはならない。」という律法の原形もなく、いつの間にか忍び寄っていた蛇、サタンも
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く