ブックマーク / www.gsi.go.jp (12)

  • 一等三角点を散歩する | 国土地理院

    の近代測量の基となった三角測量は、工部省測量司が明治4年にイギリス人 マクヴインの指導のもとで、東京府下に13点の三角点を設置したことに始まります。その後、明治8、9年には、開拓使が米人ワッソン、デイの指導により、北海道の南部と中央地域を中心に約50点の観測を実施しました。ついで、明治7年内務省地理寮が、前記測量司の仕事を引き継ぎ、明治8年に関八州大三角測量として測量を開始し、その後全国測量と改称して全国の国境の測量を始めました。 明治15年には、この三角点の選点 100点が終了し、明治17年からは陸軍参謀部測量局がこの測量を引き継ぎ、いよいよ全国的な三角測量が始まりました。参謀部では、8年間のドイツ留学から帰朝した(明治15年)田坂虎之助が現在の測量作業規程に当たる「三角測量説約」を完成させ、格的な一等三角測量に着手しました。この時点から測量は、フランス式からドイツ式に変更さ

  • 最高標高一等三角点 | 国土地理院

    最高標高の一等三角点「赤石岳」長野県下伊那郡大鹿村 北緯 35度 27分 29秒 東経 138度 9分 38秒 標高 3120m 最高標高一等三角点は、富士山でも北岳でもなく「赤石岳」です。それは、一等三角点が山の高さを測量するためではなく、あくまでも地図作成と今後の測量を目的としたからです。 一等三角測量は、近代的な地図を作るためにスタートしました。したがって、測量を始めた当初は正確な地図は「伊能図」しかなかったといってもよいと思います。 三角点の名前は、確かな地図も持たないで調査・測量した技術者がつけました。そのため、地元からの聞き取りなどでつけた山の名前の位置や文字が、間違っていたこともあります。 特に、日アルプスなどの深山などでは、情報も少なく苦労したものと思います。三角点の名称と、山の名称が異なる例としては、「前穂高岳」につけられた一等三角点「穂高岳」、「西穂高岳」につけられた

  • 測量の結果(一等三角網) | 国土地理院

    一等三角測量は、3kmから10kmの長さの基線を正確に測り(基線測量)、これと両端点などで観測した内角をもとに一等三角網の1辺の長さを求めます。 そして、角観測を実施して一等三角網ができあがっていきます。しかし、このまま順次三角形の頂点の値を求めていくと誤差が累積します。そこで、一定の密度で基線(全国に15)を設置して精度を確保しています。 このようにしてできあがったのが、図のような一等三角網です。

  • 測量の結果(成果表) | 国土地理院

    測量の結果を収録したものが「三角点成果表」です。 「成果表」には、三角点の等級、名称、経度、緯度、XYの座標、標高など、当該三角点に関する事項が全て記載されています。 ここに示しているものは、以前の様式の成果表で周辺の三角点への方向角と距離の対数が網羅されていますが、現在のものは簡略化されています。

  • 測量の結果(点の記) | 国土地理院

    「点の記」とはどんなものでしょうか。 三角点の戸籍又は、案内図といったものです。見知らぬ場所の三角点で測量をする際に、測量者は必ず入手して利用します。 内容は、点名、所在地、土地の所有者、測量年月日、三角点までの道順、交通、案内図などで構成されています。 旧「点の記」には、付図はついていませんが、道順や水や料の確保、人夫の雇用状況など測量に役立つ、たくさんの情報が書かれています。 ここに書かれたことが現在の測量に役立つことはほとんどありませんが、測量だけでなく当時の様子を知る貴重な資料となっています。新田次郎の「剱岳 点の記」は、これをタイトルにしたものであることは有名です。

  • 測量の結果(観測手簿) | 国土地理院

    一等三角測量が実施された明治初期は、アラビア数字が苦手という技術者も多数いたようで、「1棒、2のん、3耳、4ケ、5ち、6鼻、7鍵、8瓢、9のし」という算用数字の暗記法さえあったといわれます。 また、読みや計算の誤りを極力防ぐため、技術者には模範数字というものが指示されました。ここにある「観測手簿」に記載された特徴的な数字は、その例に沿ったものです。

  • 一等三角点標石の構造 | 国土地理院

    一等三角点標石の重さは、柱石が90kg、盤石が45kgもあります。標高2,000m以上の高山にこれを運び上げるには相当の苦労があったようです。 また、私たちが通常見ているのは、標石全体のほんの一部でしかありません。上部から順に、柱石、盤石、下方盤石があり、平地部などには4つの保護石もあります。盤石と下方盤石は、もしものために復元できるように設置したもので、それぞれの中心線が一致しています。ただし、高山地などでは下方盤石がないものもあります。

  • 正確な位置をしめす標石 | 国土地理院

    三角点の正確な位置は、埋められた標石の十字の中心が示しています。 観測をした「やぐら」の中心が、必ずしも標石の中心と一致するとは限りません。標石は、その後の保管などを考えて、ふさわしい位置に埋められます。 写真の「雲取山の三角点」は一部破損しています。三角点は、多くの測量技術者の汗の結晶です。一度壊れると復旧には多くの経費が必要となります。保全にご協力下さい。

  • 目標となる光 | 国土地理院

    40kmも離れた三角点の「やぐら」が見えるのでしょうか。 多くの場合には、ここにあるような「回照器」で太陽の光を反射させ、相手方に光を送って観測に利用しました。ただし、近距離の場合は、小さく見える「やぐら」を望遠鏡でとらえて直接測ります。 太陽の光を目的地に送るには、太陽の動きに合わせて鏡を動かす必要があります。熟練した助手(測夫〔そくふ〕あるいは、測手〔そくて〕と呼ばれる)が、天候に左右されることが多い観測が無事終わるまで、辛抱強くこの仕事にあたりました。 その後、自らの光を送ることができる、「回光器」と呼ばれるものも使用されました。 トランシーバのない時代、遠く離れた測量技術者と助手との間で、測量の開始や終了の合図はどうしていたのでしょうか。 回照器や回光器による信号を利用していました。中断信号により昼を取り、開始の合図で測量を行い、これを何度も繰り返して完成信号で山を下りたのです。

  • 角度を測る器械 | 国土地理院

    では、三角測量の主役である角度を測る器械はどんなものでしょうか。 ここにあるのは、「カールバンベルヒ一等経緯儀」と呼ばれるドイツ製の水平角を測る器械です。その精度はすばらしいもので、堅ろう無比であったといわれます。 運搬箱を含めた総重量は約60kgもあり、「やぐら」の材料や料などとともに運搬には、相当苦労したようです。 三角測量の困難な様子について、大正11年の雑誌「武侠世界」には、日アルプスの登攀記録とともに陸地測量部員の遭難記録がいくつか掲載されていて、大正6年の知床半島「海別岳の遭難」では、9月29日の猛烈な暴風雨で雨漏りの後、天幕を飛ばされ気温の低下が測量手ら(当時は測量技術者のことを、測量師・測量手と呼んでいた)を襲い、三日間天候の回復がなく、飢えと寒さのため死を覚悟して信号用の旗を立て、これまでの測量結果である手簿と一同の遺書を測旗に包み竿に結びつけたとあります。幸い数日後

  • 一等三角測量とは | 国土地理院

    一等三角点の前身となる内務省の大三角点標石:雲取山(角田篤彦氏撮影) 新潟県の米山山頂にも現存が確認されている。 一等三角測量は、正確な長さが測定された基線を設けることから始まります。基線は3kmから10kmという直線と平坦な地域が確保できるところを選び、4mから25mの伸縮の少ない正確な物差し(基線尺)を使用して、その長さを慎重に測りました。 特に温度による伸縮を少なくするため、明治末期までは氷漬けにして温度を0度に保った基線尺を使用したといわれます。 この基線の正確な長さと両端での角の観測をもとに、次第に順次大きな三角形を作り、40kmほどの間隔で全国をおおう三角点を設置します。 これが一等三角点(一等三角点)と呼ばれるものです(一般には、その後25km間隔の密度になるように設置された一等三角補点を含んで、一等三角点と呼ぶことが多い)。 その後、二等、三等と順次高密度に三角点を設置し

  • 平成27年1月以前の旧地理院地図のソースの脆弱性に対するアップデート | 国土地理院

    平成27年1月まで国土地理院が運用していた旧地理院地図のソースについて、ディレクトリトラバーサルの脆弱性が発見されましたので、アップデートを行いました。 ご不便をおかけ致しますが、下記に示すアップデートの対象となるサイトを運用されている方は、アップデートをお願い致します。 ※ なお、このバージョンの旧地理院地図は現在、国土地理院では運用しておりません。 ※ ディレクトリトラバーサルについて JVN iPedia脆弱性対策情報データベース http://jvndb.jvn.jp/ja/cwe/CWE-22.html

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