luixxiulのブックマーク (82)

  • 『大学』『中庸』を解読する

    『大学』と『中庸』は、儒学の経典『礼記』に収録されていた2篇だ。荀子の時代の後、紀元前3世紀頃に著されたとされている(正確な時代は不明)。孔子が生きたのが紀元前5世紀(春秋時代)だったから、孔子の死後およそ200~300年間のうちに著されたことになる。 『大学』と『中庸』は、はじめ『礼記』に収録されている1章にすぎなかった。この2章に光をあてたのが、朱子学を創始した朱熹だ。朱熹は『礼記』から『大学』と『中庸』をピックアップし、『論語』と『孟子』と合わせて「四子書」とした。これがいわゆる四書五経のはじまりとされる。 ただし、朱熹は『大学』と『中庸』を原形そのままに受け継いだわけではない。朱熹は彼独自の解釈を加えたうえで、それらをみずからの理論のうちに取り込んだ。朱熹流の『大学』と『中庸』が物とみなされていた時代もあったようだが、現代では文献研究を通じて、来の姿をほとんどの部分について確認

    『大学』『中庸』を解読する
    luixxiul
    luixxiul 2013/02/20
  • ルソー『人間不平等起原論』を解読する

    『人間不平等起原論』は、ジャン=ジャック・ルソーの著作だ。1754年に執筆され、1755年にオランダで出版された。 書はタイトルどおり「不平等」について書かれたものだ。ルソーは書で、「社会のうちで弱者が強者に従属し、しかも弱者が望んでそうするようになった過程は何か?」という問いを置き、これに関する原理論を行っている。 この論文のなかで問題になるのは正確にいって何であるか。事物の進歩のなかで、暴力についで権利が起り、自然が法に服従させられた時期を指し示すこと、それから、いかなる奇蹟の連鎖によって、強者が弱者に奉仕し、人民が現実の幸福と引き換えに想像上の安息を購うことに決心したのかを説明することである。 以下で見るように、『人間不平等起原論』は、人間社会のうちに不平等が現れてこざるをえない理由と条件についての仮説であり、まさにこの不平等を解決するための原理を示すことを目的として『社会契約論

    ルソー『人間不平等起原論』を解読する
    luixxiul
    luixxiul 2013/02/19
  • イェーリング『権利のための闘争』を解読する

    「闘争のうちでこそ権利を見出すべし」 書『権利のための闘争』は、ドイツの法哲学者ルドルフ・フォン・イェーリング(1818年~1892年)による著作だ。ウィーンでの講演録をまとめたもので、1872年に発表された。 書のポイントをひとことで言うと、大体次のような感じだ。 正当防衛権を除く私たちの一切の権利は、敵対勢力との闘争を通じて勝ち取られたものだ。このようにして勝ち取られた権利の核心には権利感覚がある。もし私たちが権利感覚を失ってしまえば、権利は形骸化してしまい、効力を失ってしまう。したがって権利感覚の涵養が国民の政治教育にとって重要だ。 世界中のすべての権利=法は闘い取られたものである。重要な法命題はすべて、まずこれに逆らう者から闘い取られねばならなかった。また、あらゆる権利=法は、一国民のそれも個人のそれも、いつでもそれを貫く用意があるということを前提としている。権利=法は、単なる

    イェーリング『権利のための闘争』を解読する
    luixxiul
    luixxiul 2013/02/19
  • エンゲルス『空想より科学へ』を解読する

    フリードリヒ・エンゲルス(1820年~1895年)はマルクスの親密な友人かつ協力者だ。マルクスの思想を何とかして広め、実現しようとする熱意のもと、社会主義体制の枠組みづくりを指導しただけでなく、批判に対しても積極的に応答した。とにかく真面目で正義感にあふれた人物だといっていいだろう。 書『空想より科学へ』は、1880年にエンゲルスが社会主義の入門書として自らの著作『反デューリング論』から抜粋して作ったパンフレットだ。 社会主義をよく知らない一般の人びとへ向けて書かれており、ほとんど前提知識がなくても分かるようになっている。エンゲルスは色々な入門書を書いているが、いわゆる「マルクス主義」を知りたければ、この一冊を読んでおけば十分だろう。 かつての社会主義は「空想的」だった エンゲルスとしては、自分たちの思想に歴史的な必然性があること、歴史の流れのうちで自分たちが社会主義を主張していることに

    エンゲルス『空想より科学へ』を解読する
    luixxiul
    luixxiul 2013/02/19
  • エンゲルス『フォイエルバッハ論』を解読する

    フリードリヒ・エンゲルス(1820年~1895年)は、同郷のカール・マルクスと並んでよく知られている社会主義者だ。 以下で見ていく『フォイエルバッハ論』は、『空想より科学へ』の6年後、1886年に出版された著作だ。なので基的な枠組みにほとんど変更はない。フォイエルバッハの評価についても、ずっと以前に発表された『ドイツ・イデオロギー』(1845年)のころから変わっていない。それゆえ『フォイエルバッハ論』には、取り立てて見るべき新しい点はほとんどないのが正直なところだ。文献学的には興味深い違いがあるのかもしれないが、主張のポイントはほぼ共通している。 ヘーゲル哲学=「過程」の哲学=弁証法 エンゲルスのヘーゲル評価の中心は、ヘーゲルは観念と現実を転倒してしまった、という点にある。 ヘーゲルは自然や歴史の一切を、認識の「過程」として捉えた。ある存在についての認識とは私たちの意識における過程それ自

    エンゲルス『フォイエルバッハ論』を解読する
    luixxiul
    luixxiul 2013/02/19
  • ヘーゲル『法の哲学』を解読する(1)

    『法の哲学』Grundlinien der Philosophie des Rechtsは、ドイツの哲学者G・W・F・ヘーゲル(1770年~1831年)の著作だ。1820年に発表された。 「法の哲学」と聞くと、なんとなく法律についての哲学を考えてしまいそうになるが、ここでいう法とは、権利とか正しさ(ドイツ語でRecht、英語でright)のことを指している。 つまりヘーゲルのいう法の哲学とは、正しさ(よさ)の哲学のことだ。 書でヘーゲルは、法権利(正しさ)の質を規定し、それにもとづいて自由の質論を展開している。なので「法の哲学」といっても、ヘーゲルは現代の法哲学が扱っているテーマとはかなり異質なことを論じていることは、頭の片隅に置いておいてほしい。 「ヘーゲルなんて古いでしょ?」…いやいや! ヘーゲル ヘーゲルといえば、いわゆる正・反・合の弁証法や、学の体系の頂点としての絶対知(この

    ヘーゲル『法の哲学』を解読する(1)
    luixxiul
    luixxiul 2013/02/18
  • ヘーゲル『法の哲学』を解読する(2)

    ここでは、ヘーゲルの『法の哲学』の後半の「倫理」の章について解説する。 前半では、自由が抽象的な法権利から「当の正しさ」を目がける道徳へと形を変えつつ展開していった。後半では、道徳から倫理(人倫)の段階へと移行し、善が客観的に実現されていくプロセスを描き出している。 つまみぐいしないで! 前半を解説したときにも軽く触れたが、書は前半が抽象的で分かりにくく、後半が具体的で分かりやすいという構造になっている。なので前半をパスして後半の議論から読みたくなる気持ちになるかもしれないが、その気持ちはどうにかこらえて、ぜひ前半を読んでから後半を読んでほしい。 ヘーゲルは、家族も市民社会も国家も、自由が社会的形態として展開したものだと考えているが、その自由の質については前半で詳しく論じている。それをつかんでいない状態で後半を読んでも、あまり意味がない。 仮に大学の授業で後半から読むことになったとし

    ヘーゲル『法の哲学』を解読する(2)
    luixxiul
    luixxiul 2013/02/18
  • オウエン『社会に関する新見解』を解読する

    オウエン 書『社会に関する新見解』(『新社会観』)はイギリス・ウェールズ出身の社会主義者ロバート・オウエン(1771年~1858年)による著作だ。1813年に出版された。 オウエンは、サン=シモン、フーリエと並ぶ社会主義の先駆者だ。社会主義といえばマルクスとエンゲルスのコンビが絶対的な権威という感があるが、エンゲルスが『空想より科学へ』などで言っているように、社会主義はフランス革命以降、すでにひとつの思想として成立していた。 エンゲルスは同書で、オウエンらの社会主義を「空想的」であり、非科学的であると批判した。確かにオウエンの場合は、原理なく熱意だけで突っ走っている感がある。だが、それでもなお、積極的に社会問題にコミットする身軽さは評価に値する。熱意は問題を解決しないが、学問的な分析だけが問題を解決するわけでもない。問題の解決には、それに応じた実践もまた必要だ。このことをオウエンの議論は

    オウエン『社会に関する新見解』を解読する
    luixxiul
    luixxiul 2013/02/18
  • ミル『功利主義論』を解読する

    『功利主義論』は、イギリスの功利主義者ジョン・スチュワート・ミル(1806年~1873年)による著作だ。1861年に雑誌に連載され、1863年に1巻として出版された。 書でミルは、先達のベンサムによって創始された功利主義について原理的な考察を行っている。 功利主義は自己中心主義ではない おそらく功利主義の一般的なイメージは次のようなものだろう。「自分の幸せを得るためであれば、他者を犠牲にしてもよい。自分の利益を最大化することが一番である」とする態度だ、というものだろう。だがそれは通俗的な理解にすぎない。 意外に思えるかもしれないが、自己中心主義はむしろ功利主義の精神に反する。功利主義を「損得や利害でしか動かない態度である」とするのは、質的な解釈とは言えない。というのもベンサムとミルでは、他者に対する好意や共感が、共生のための原理になると考えるからだ。 カントの道徳論に欠陥がある まず

    ミル『功利主義論』を解読する
    luixxiul
    luixxiul 2013/02/18
  • デカルト『方法序説』を解読する

    『方法序説』は、「近代哲学の父」として知られるルネ・デカルト(1596年~1650年)の代表作だ。1637年に発表された。 デカルトの代名詞は「われ思う、ゆえにわれあり」(コギト・エルゴ・スム)。大学などで哲学を勉強したことがなくても、おそらく一度は聞いたことがあるだろう。これはデカルトの思想の根にある考えだ。 書におけるデカルトの功績は、習俗や文化の違いを超えた共通了解の可能性を取り出したことにある。 デカルトは、それまでの「神が真理を照らし出す」(=神を知らない一般人は真理を知ることができない)という考え方に代えて、理性でとことん考えれば誰もが受け入れることのできる地点があるはずだという考え方を打ち出した。これは歴史上、とても先駆的な直観だった。 以下、この点についてデカルトの議論に沿いながら確認してみたい。 世界の普遍的認識を目指して 書の冒頭で、デカルトは次のような主張を置く

    デカルト『方法序説』を解読する
    luixxiul
    luixxiul 2013/02/18
  • プラトン『メノン』を解読する

    プラトン 書『メノン』は、古代ギリシアの哲学者プラトン(紀元前428頃~紀元前347頃)の対話篇だ。『ソクラテスの弁明』といった初期対話篇と、『国家』といった中期対話篇をつなぐ位置を占めている。 書のテーマは「徳とは何か?」というものだ。対話はソクラテス、青年メノン、政治家アニュトスの間で行われる。 冒頭、メノンがソクラテスに対して次のような質問を投げかける。 こういう問題に、あなたは答えられますか、ソクラテス。——人間の徳性というものは、はたしてひとに教えることのできるものであるか。それとも、それは教えられることはできずに、訓練によって身につけられるものであるか。それともまた、訓練しても学んでも得られるものではなくて、人間に徳がそなわるのは、生まれつきの素質、ないしはほかの何らかの仕方によるものなのか……。 「徳」は教えられるか。それとも、ただ訓練によってのみ得られるのか。あるいは生

    プラトン『メノン』を解読する
    luixxiul
    luixxiul 2013/02/18
  • アリストテレス『政治学』を解読する

    書は古代ギリシアの哲学者アリストテレス(紀元前384年~紀元前322年)による政治学だ。書でアリストテレスは、ポリス(古代ギリシアの都市国家)とは何であり、それはいかに治められるべきかという問題に取り組んでいる。 奴隷制を肯定したけど アリストテレスは次のように批判されることがある。「確かにアリストテレスは共和制国家を肯定していた点で評価できる。しかしその内実は、奴隷制の上に成り立っているものでしかない」、と。 現代の水準からはそうも言える。しかしアリストテレスのいう国家とは、あくまでギリシアのポリスであることを忘れてはいけない。万人がひとりの人格として互いに平等であるという理念は近代に至って初めて現れたものだ。 アリストテレスが奴隷制を(消極的であれ積極的であれ)肯定しているからといって、そのことでもってアリストテレスの議論を批判するのはフェアじゃない。別に歴史的なプロセスにおいてア

    アリストテレス『政治学』を解読する
    luixxiul
    luixxiul 2013/02/18
  • プラトン『饗宴』を解読する

    「行くぞアルキビアデス」 書『饗宴』はプラトン(紀元前428頃~紀元前347頃)による対話篇だ。『メノン』や『パイドロス』と同じく、ソクラテスを主役とする。テーマは恋(エロス)だ。 最初に言っておくと、プラトンが書で論じている恋は、少年愛のことを指している。いまではかなりアブナイものに聞こえるが、当時のギリシャで少年愛は、ポリスの市民(参政権をもつ男性)に暗黙の義務として課せられているものだったようだ。古代ギリシアで少年愛は決して特殊なものではなかったようだ。 「少年愛と現代の恋愛のあり方は大きく異なる。プラトンの恋愛論は、古代ギリシャにしか当てはまらないのではないだろうか?」そう思うひともいるかもしれない。 しかし逆に、こうした違いがあるからこそ、私たちはプラトンの議論の普遍性をよりよく吟味し、確かめることができる。そうした形式上の違いがあっても納得できるなら、それはプラトンが恋愛

    プラトン『饗宴』を解読する
    luixxiul
    luixxiul 2013/02/18
  • アウグスティヌス『告白』を解読する

    アウグスティヌス(354年~430年)は、中世哲学・キリスト教哲学の中では超重要人物だ。多作であり、スコラ哲学を代表するトマス・アクィナスに強い影響を与えた。自由意志について論じたことを考慮すると、近代哲学にも影響を与えたといえる。 アクィナスに影響を与えたと聞くと、アウグスティヌスはさぞかし真面目なエリート学者だったのでは、と思えるかもしれない。 しかし、もしアウグスティヌスが自分の欲望のやみ難さや、故郷の母親が自分を心配していることに対してひどく悩んでいたと聞くと、何か身近さを覚えるひともいるのではないだろうか? 私は特にキリスト教に思い入れがあるわけではないが、書で描かれているアウグスティヌスには好感を抱いている。というのも、書にはアウグスティヌスが当に納得できる生き方を試行錯誤しながら探求していたこと、また、そうせざるをえなかった内的な理由が描かれているように思えるからだ。

    アウグスティヌス『告白』を解読する
    luixxiul
    luixxiul 2013/02/18
  • マキャヴェリ『君主論』を解読する

    ニッコロ・マキャヴェリ マキャヴェリ(1469年~1527年)は、中世イタリア、フィレンツェ共和国の政治思想家・外交官だ。 マキャヴェリはプラトンやアリストテレスのような古代ギリシャの哲学者と異なり、政治活動に直接携わっていた(主に政治コンサルタントとして)。そのせいか、マキャヴェリの議論にはかなり細かいテーマが出てくる。城塞は不要だとか、軍の指揮官はひとりであるべきだとか、原理論というよりはむしろ実践的なアドバイスを目にすることが少なくない。 実践的な活動を通じて養われたマキャヴェリの政治思想のポイントをひとことで言い表せば、現実主義(リアリズム)だ。リアリズムという言葉には何か冷酷な響きがある。しかしマキャヴェリは、政治で理想を追い求めるべきではない、と言うわけではない。なぜなら政治の独自の運動性を見て取ることが「よい政治」にとって役立つはずだという信念が彼の議論を支えているからだ。

    マキャヴェリ『君主論』を解読する
    luixxiul
    luixxiul 2013/02/18
  • ロック『人間知性論』を解読する

    『人間知性論』は、経験論の創始者ジョン・ロック(1632年~1704年)による認識論の著作だ。1689年に発表された。 書でロックは、人間の知性、具体的には人間の認識構造(私たちはいかにして認識するのか?)を問題とする。「知性の限界を知ることで、知性をよく用いることが可能となる。では知性の質的な構造は何だろうか?」これが書の中心テーマだ。 人間のおせっかいな心を説き伏せて、知性の了解にあまる物ごとへはいっそう慎重に立ち入らないようにさせ、知性の権限範囲の極限に達したときは立ち止まらせ、検討の結果私たちの能力が到達できないとわかる物ごとでは穏やかに無知のままでいさせるという点で、有益だろうと思う。 これは形而上学を終わらせようという、ロックなりの宣言だ。 これまで哲学は、知性で確認できない事柄にもとづいて人間の理性のありようについて論じてきた。しかしそうした試みはほとんど無益だ。何らか

    ロック『人間知性論』を解読する
    luixxiul
    luixxiul 2013/02/18
  • カント『純粋理性批判』を解読する

    カントの議論を追っていくと、様々な概念がいくつも出てくる(物自体はまだいいほうで、カテゴリー、図式、判断力、先験的理念など、哲学史上カントしか使ったことのないような概念が山ほどある)。しかし全体の大枠をつかむためには不要なものもあるので、概念の多さに戸惑わないでほしい。書の白眉は何と言っても「アンチノミー」に関する議論だ。悟性と理性の関係に着目して読むと、カントの真摯な熱さを感じられるはずだ。 (1)感性:データを採取し、直観を供給する能力 カントは次のように言う。 私たちは感官を通じて対象を認識する。対象が心を触発することで、その対象は私たちに与えられる。その際に重要な働きを行うのが感性だ。 感性は外部データを採取し、直観を私たちに与えてくる能力だ。感性を通じて、対象の色や形といったデータが、私たちに与えられる。感性がなければ、そもそも対象を知覚することも認識することもできない。 対象

    カント『純粋理性批判』を解読する
    luixxiul
    luixxiul 2013/02/18
  • カント『永遠平和のために』を解読する

    『永遠平和のために』 Zum ewigen Friedenは、ドイツの哲学者イマヌエル・カント(1724年~1804年)による政治論だ。1795年に出版された。 書のテーマは「平和」だ。厳密に言うと、一切の戦争の契機が存在しない状態、戦争が絶対に生じない永遠平和状態はどのようにして作ることができるか。これが書で取り組む問題だ。 カントは書の議論を『実践理性批判』で示した道徳の概念に基づいて行っている。国家にも人間と同じく、利害を求める傾向性と、自らに道徳法則を課す「理性」(『実践理性批判』で論じられている意味での理性)があると考え、それに基づき政治構想を行おうとしている。 書の全体像を簡単にまとめると、大体以下のような感じだ。 国家をひとつの人格として捉える。そうすると国家は対外的・対内的利害に動かされる傾向性をもっていると同時に、定言命法により道徳的法則を自分自身に課すような存在

    カント『永遠平和のために』を解読する
    luixxiul
    luixxiul 2013/02/18
  • プラトン『パイドン』を解読する | philosophy guides

    アリストテレス、トマス・アクィナス、プラトン 『パイドン』は、『メノン』や『国家』に並ぶ、プラトン中期の代表作だ。ソクラテス亡き後、ソクラテスの弟子のひとりだったパイドンが、哲学者エケクラテスにソクラテスの最期の様子を語るという形式で書かれている。 プラトニズム この著作では、プラトンのいわゆる「プラトニズム」がハッキリと現れている。プラトニズムとは、肉体を否定し、魂(精神)を善いとみなす態度のことだ。プラトンは次のように言っている。 哲学者の義は「イデア」を捉えることだ。イデアを捉えるためには、哲学者はみずからの肉体から離脱しなければならない。肉体は真理を認識することにとっては邪魔者でしかないからだ。 哲学者というのは、普通人とはちがって、魂を肉体との結びつきからできるだけ解放しようとする者だ イデアは、あるものを「それ」たらしめている質のことだ。真実在と訳されることもある。 たとえ

    プラトン『パイドン』を解読する | philosophy guides
    luixxiul
    luixxiul 2013/02/18
  • プラトン『パイドロス』を解読する

    書『パイドロス』は、古代ギリシアの哲学者プラトンによる対話篇だ。 書のテーマは、『饗宴』と同じく恋愛だ。ただし、書でプラトンは『饗宴』とは若干異なる側面を取り出している。その側面とは、エロティシズムとロマンティシズムの相克だ。 『饗宴』は、エロティシズムとロマンティシズムの両方を恋愛質として規定していたが、『パイドロス』はもう一歩踏み込んで、ひとたび恋愛におちいったひとが遭遇するエロティシズムとロマンティシズムの争いを描き出している。一度でも恋に落ちたことがあれば、プラトンの言っていることを理解するのは決して難しくないはずだ。 ところで、この作品で恋愛論が占めているのは全体の半分程度で、残りは弁論術に関する対話となっている。ここでは『メノン』で現れていた普遍性に対するプラトンの感度をはっきり見て取ることができる。その点もあわせて確認してみたい。 恋の「質」を明らかにせよ 対話は

    プラトン『パイドロス』を解読する
    luixxiul
    luixxiul 2013/02/18