第一次世界大戦で敗れたオスマン帝国において、トルコ独立戦争とトルコ革命を僚友たちとともに指導してトルコ共和国を樹立。宗教(イスラム教)と政治を分離しなければトルコ共和国の発展はないと考え、新国家の根幹原理として政教分離(世俗主義)を断行。憲法からイスラム教を国教とする条文を削除し、トルコ語表記をアラビア文字からラテンアルファベットへ変更[注釈 4]、一夫多妻禁止や女性参政権導入[2]、スルタン制廃止などトルコの近代化を推進し、トルコ大国民議会から「父なるトルコ人」を意味する「アタテュルク」の称号を贈られた。現代トルコの国父[3](建国の父)とも呼ばれる。 テッサロニキに保存されているアタテュルクの生家 1881年、オスマン帝国領セラーニク県(英語版)の県都セラーニク(現ギリシャ領テッサロニキ)のコジャ・カスム・パシャ街区で、税関吏アリ・ルザー・エフェンディ(英語版)と母ズュベイデ・ハヌム(