常識的に考えれば、武田方は織田・徳川連合軍の攻撃に備えつつ、長篠城を力ずくで落とすべきである。 しかし武田勝頼は長篠城を落とさず、天正3(1575)年5月21日、主力勢を率いて設楽ケ原(したらがはら)に向かい、連吾川(れんごがわ)を挟んで連合軍と対峙(たいじ)した。 この時点で、長篠城は武田方の足枷(あしかせ)となった。勝頼は長篠城の抑えに兵力を割かねばならず、背後を脅かされた格好で決戦に臨むことになる。 いかなる理由から勝頼が、こうした挙(きょ)に出たかは謎である。むろん長篠城囮(おとり)説は仮説であり、通説通りに落とせなかったのかもしれない。しかしそれならそれで、秩序だった「退(の)き陣」に移れば、惨敗せずに済んだはずである。 それでは、なぜ勝頼は不利な態勢で決戦を挑んだのか。 そこには、餌を投げれば食らい付いてくるという勝頼の性格を知り抜いた、信長の深い人間洞察力があったとしか思えな
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