『未成年』(みせいねん、ロシア語原題:Подросток)は、フョードル・ドストエフスキーによって書かれた長編小説。1875年に雑誌『祖国雑記(ロシア語版、英語版)』(Отечественные записки)に連載された。主人公の手記で教養小説の形式をとっている。 『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』と並ぶ後期五大長編作品で、4番目に出された。しかし、ドストエフスキー後期五大長編の中でとりわけ難解で読みにくいと言われ、一般人の知名度もそれほど高くなく、本作品を除いて『罪と罰』『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』を四大長編と呼ぶ人も少なくない。 主人公アルカージイの告白・手記という形式を取り、物語は一人称で描かれている。その意図は「これは自分のために書かれた偉大な罪人の告白である。未成年がどのように世の中に出たかについての叙事詩になるはずであり、彼の探求・希望・失望・
『地下室の手記』(ちかしつのしゅき、原題:Записки из подполья)は、フョードル・ドストエフスキーの中編小説。 1864年、雑誌『エポーハ』(『世紀』)に掲載。 中村融訳や米川正夫訳では『地下生活者の手記』(ちかせいかつしゃのしゅき)、亀山郁夫訳では『新訳 地下室の記録』(しんやく ちかしつのきろく)の題で出版された。 「地下室」と「ぼた雪に寄せて」 の二部構成からなる。 主人公の地下人間は、1860年代のサンクトペテルブルクに一人で住む、完全に社会から孤立した公務員である。彼は非常に冷酷で、人間性に対する希望を失っていた。遺産を相続して退職できた。小説は、地下人間が書いた複雑で矛盾した「ノート」から成り立っており、これらのノートは彼の孤独と社会的疎外の状態を説明している。 小説は二つの部分に分かれる: 「地下」:この部分は、地下人間が40歳であった1860年代のサンクトペ
『アンナ・カレーニナ』(露: Анна Каренина)は、帝政ロシアの作家レフ・トルストイの長編小説。1873年から執筆を開始し、1875年から雑誌『ロシア報知(英語版)』(露: Русскій Вѣстникъ[2])に連載した。1877年に単行本初版が刊行された。『戦争と平和』と並ぶ作者の代表作であり、現代に至るまで高い評価を受けている。 主な舞台は1870年代のロシア。 政府高官カレーニンの妻である美貌のアンナは、兄夫婦の諍いを仲裁するためにやってきたモスクワで若い貴族の将校ヴロンスキーと出逢い、互いに惹かれ合う。 地方の純朴な地主リョーヴィンはアンナの兄嫁の妹キティに求婚するが、ヴロンスキーとの結婚を期待するキティに断られてしまう。失意のリョーヴィンは領地に戻り、農地の経営改善に熱心に取り組む。ところがキティはヴロンスキーに無視され、それがきっかけで病を患ってしまう。 アンナは
ペトラシェフスキー 処刑直前のペトラシェフスキー(右) ミハイル・ヴァシーリエヴィチ・ペトラシェフスキー(ロシア語: Михаи́л Васи́льевич Буташевич-Петраше́вский、1821年11月13日 - 1866年12月19日)は、ロシアの社会主義者。 1821年、貴族の家系に生まれた。ペテルブルクで学んだのち、外務省の翻訳官となった。徐々に社会主義思想に関心を抱き、当時は禁書であったサン・シモン、フーリエなどの著作を保有し、勉強サークルを主宰していた。しかし、1849年4月に警察によってサークル員が逮捕され、ペトラシェフスキーを含むのべ21名(当初は15名)に銃殺刑の判決が下された。1849年12月22日、処刑場であるセミョーノフスキー練兵場へと連行され、彼を含む3人が最初に処刑されるグループとして柱にくくりつけられた。処刑のため銃口が向けられた段階で、減刑
イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ(ロシア語: Ивáн Серге́евич Турге́нев, ラテン文字転写: Ivan Sergeevich Turgenev, 1818年11月9日(ユリウス暦:10月28日) - 1883年9月3日(ユリウス暦:8月22日)[1])は、フョードル・ドストエフスキー、レフ・トルストイと並んで、19世紀ロシア文学を代表する文豪である。ロシア帝国の貴族。 名前の表記は「ツルゲーネフ」の他、ロシア語の発音に近い「トゥルゲーネフ」という表記も用いられる。 ロシア中部オリョールに、地主貴族の家庭の次男として生まれる。デカブリストの乱において「北方結社(ロシア語版)(露: Северное общество)」を設立したN.I.ツルゲーネフ(英語版)も同じ一族である。 15歳でモスクワ大学教育学部に入学、1年後、ペテルブルク大学哲学部に転じる。1838年
この項目では、詩人について説明しています。帝政ロシア末期からソビエト連邦時代の政治家については「ニコライ・ネクラーソフ (政治家)」をご覧ください。 N.A.ネクラーソフニコライ・アレクセーヴィチ・ネクラーソフ(ロシア語:Николай Алексеевич Некрасовニカラーイ・アリクスィェーイェヴィチュ・ニクラーサフ;ラテン文字転写の例:Nikolai Alekseevich Nekrasov、1821年12月10日(ユリウス暦11月28日) - 1878年1月8日)は、帝政ロシア時代の詩人、雑誌編集者である。 ポジーリ県(現在のウクライナ・ヴィーンヌィツャ州)の落ちぶれた地主貴族の子として生まれ、1832年にヤロスラヴリ市のギムナジージャ(8年制)に入学する。第5年級で中退した年、雑誌『祖国の子』に詩が初めて掲載された。父の意志にそむいて軍隊ではなくペテルブルクで大学文科の聴講
『死の家の記録』(しのいえのきろく、ロシア語: Записки из Мёртвого дома)は、19世紀ロシア人作家フョードル・ドストエフスキーの長編小説である。 ペトラシェフスキー会(en)のメンバーとして逮捕されたドストエフスキーは、シベリア流刑され約4年間オムスク監獄で囚人として過ごした。1860年から1862年にかけ発表され、実質上「死の家の記録」は、ドストエフスキー自身の獄中記録とも言える。1度検閲により発表が禁止されたことから、アレクサンドルという架空人物を設定しているが、その設定も物語途中に崩れている。 トルストイは、後期長編『復活』を書くにあたってこの作品を読み直したと書き残しており、ドストエフスキーとは良い関係とは言えなかったツルゲーネフも本作品については賛辞を惜しまなかった。ドストエフスキーが獄中で寝起きを共にし、間近に接したロシア民衆の多様な人間像は、その後のド
ヴィッサリオン・グリゴーリエヴィッチ・ベリンスキー(ロシア語: Виссарио́н Григо́рьевич Бели́нский;ラテン文字表記の例:Vissarion Grigorievich Belinskii、1811年6月11日 - 1848年6月7日)は、ロシアの文芸批評家。 現フィンランドのスヴェヤボルクに退役海軍軍医の子として生まれる。国費給付される学生としてモスクワ大学に在学中、農奴制を攻撃した戯曲『ドミトリー・カリーニン1831年』を書いて、〈能力が薄弱で不熱心〉という名目で放校される。『文学的空想 Литературные мечтания 1834年』によって批評活動をはじめ、スタンケーヴィチ、ゲルツェン、バクーニンなどと親交を結んだ。1839年から雑誌『祖国の記録』を中心にいろいろな雑誌に論文・時評・書評を書き続け、1846年に『祖国の記録』を辞し、ネクラーソフ
『貧しき人びと』(まずしきひとびと、ロシア語: Бедные люди)はフョードル・ドストエフスキーの往復書簡形式の中編小説で、1846年に出版された。 雑誌編集者ニコライ・ネクラーソフは批評家ヴィッサリオン・ベリンスキーに対して「新しいゴーゴリが現れた」と礼賛した。ベリンスキーはこの作品を読んでその意見に同調した。日本語タイトルは、出版社によっては『貧しき人々』とも。 初老の小役人マカール・ジェーヴシキンと少女ワーレンカとの間で凡そ半年に渡って交わされる往復書簡。お互いに身の回りで起きた出来事を報告したり、その時の心境を綴っている。その話の内容とは、ワーレンカの父親が事業に失敗して不機嫌となり、その後病気になってそのまま死んでしまった事、それだけでなく債権者が押し掛けて家や土地も家具も全て持って行ってしまった事や、彼女がポクロフスキーという元大学生と交流し、亡くなるまで世話をしたといっ
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "カラマーゾフの兄弟" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2019年7月) 1879年に文芸雑誌『ロシア報知(英語版)』(露: Русскій Вѣстникъ)で連載が開始、翌1880年に単行本が出版された。『罪と罰』と並ぶドストエフスキーの最高傑作とされ、後期五大長編作品(他は『白痴』、『悪霊』、『未成年』)の最終作である。 複雑な4部構成(1 - 3編、4 - 6編、7 - 9編、10 - 12編)の長大な作品であるが、序文によれば、続編が考えられていた。信仰や死、国家と教会、貧困、児童虐待、父子・兄弟・異性関係などさ
『機械』(きかい)は、横光利一の短編小説。新手法を駆使した実験小説で、文学的独創性を確立し注目された横光の代表的作品である[1][2][3]。あるネームプレート製作所で働く「私」の心理を通して、そこで起った作業員同士の疑心暗鬼と諍いから重大な結末に至るまでの経過を独白する物語。段落や句読点のきわめて少ない独特のメカニックな文体で、機械のように連動する複雑な人間心理の絡み合いが精緻に描かれ、一つの抽象的な「詩的宇宙」が形成されている[3][4]。一人称の「私」以外の「四人称」の「私」の視点を用いて、新しく人物を動かし進める可能の世界を実現しようと試みた実験小説である[5][3]。 1930年(昭和5年)、雑誌『改造』9月号(第12巻第9号)に掲載され、翌年1931年(昭和6年)4月、白水社より単行本刊行された[6][7][8]。文庫版は新潮文庫、岩波文庫などから刊行されている。 私は、ネーム
『白痴』(はくち、Идиот)はフョードル・ドストエフスキーの長編小説の代表作。1868年に雑誌『ロシア報知(英語版)』(露: Русскій Вѣстникъ)で連載された。『罪と罰』に続き出され、後期五大長編作品(他は『悪霊』、『未成年』、『カラマーゾフの兄弟』)の一つ。 レフ・トルストイは本作について、「これはダイヤモンドだ。その値打ちを知っているものにとっては何千というダイヤモンドに匹敵する」と評したといわれる。 題名の『白痴』には2つの意味がある。主人公ムイシュキン公爵が文字通り知能が著しく劣っているというもの(現代ではこの意味での「白痴」は差別的意味に捉えられることもある)と、「世間知らずのおばかさん」という意味である。しかし、作者はどちらの意味においても否定的に描いていない。ドストエフスキーは、白痴であるムイシュキン公爵を、誰からも好かれる文句なしの善人として描いた。ドストエ
『悪霊』(あくりょう、Бесы)は、フョードル・ドストエフスキーの長編小説。1871年から翌年にかけて雑誌『ロシア報知(英語版)』(露: Русскій Вѣстникъ)に連載され、1873年に単行本として出版された。 無政府主義、無神論、ニヒリズム、信仰、社会主義革命、ナロードニキなどをテーマにもつ深遠な作品であり著者の代表作。『罪と罰』、『白痴』、『未成年』、『カラマーゾフの兄弟』と並ぶドストエフスキーの五大長編の1つで、3番目に書かれた。 題名は作品のエピグラフにも使われているプーシキンの同題の詩および新約聖書<ルカによる福音書>第八章三二-三六節[1]からとられている。 フリードリヒ・ニーチェは、スタヴローギン、キリーロフ、ピョートル、シャートフたちの世界解釈に注目して、抜書きをしていた[2]。 ニコライ・フセヴォロドヴィチ・スタヴローギン 類い稀な美貌と並外れた知力・体力をもつ
起源はケルトの説話であり、12世紀の中世フランスで韻文の物語としてまとめられた。12世紀終りごろドイツにも伝えられた。 元々は独立した作品であったが、13世紀になるとフランスで散文のトリスタンが書かれ、それがアーサー王物語に組み込まれる。そこではトリスタンは円卓の騎士の一人に数えられ、ランスロットと並ぶ武勇を誇る騎士として物語が展開された。 騎士モルオルトと決闘するトリスタン 生れ落ちてすぐ両親を亡くしたトリスタンは、やがて叔父マルク王に仕え、文武に優れ憐れみ深い騎士として広く知られていた。 トリスタンはコーンウォールに朝貢を要求するアイルランドの騎士モルオルトと決闘し破るが、モルオルトの剣に塗られていた毒により倒れる。死を覚悟し、一人海に漕ぎ出でたトリスタンは、偶然にもアイルランドに漂着する。トリスタンは「どんな毒でも取り除ける」と有名な王妃に預けられたが、モルオルトの仇であることが知ら
『罪と罰』(つみとばつ、ロシア語: Преступление и наказание, 1866年)は、ロシアの文豪フョードル・ドストエフスキーの長編小説。 ドストエフスキーの代表作であり、世界的な長編小説の一つしても挙げられる名作である。「現代の予言書」とも呼ばれ[1]、ドストエフスキーの実存主義的な考え方を垣間見ることができる[誰によって?]。 1866年に雑誌『ロシア報知(英語版)』(Русский вестник(ロシア語版))に連載。『カラマーゾフの兄弟』、『白痴』、『悪霊』、『未成年』の後期五大長編小説で、最初に出版された。 主人公である貧しい元大学生ラスコーリニコフは、頭脳明晰ではあるが「一つの微細な罪悪は、百の善行に償われる」「選ばれた非凡人は、新たな世の中の成長のためなら、社会道徳を踏み外す権利を持つ」という独自の犯罪理論を持つ青年である。 主人公は、金貸しの強欲狡猾な老
フョードル・ドストエフスキーはモスクワのマリインスキー貧民救済病院の官舎で、ミハイル・アンドレ―ヴィチ・ドストエフスキーの次男として、生まれる。ミハイルは、マリインスキー貧民救済病院の医師であり、後に院長を務めた。母は、モスクワの裕福な商人の娘であった。敷地内にある実家で育つ。兄1人、妹2人、弟2人あり。1827年に、父が八等官に昇進して領地を持つことが許された。 四年後の1831年に、モスクワから150キロメートルほど南に離れたトゥーラ州にあるダロヴォーエを買う。その翌年には、隣村のチェリョーモシナを買い、「地主貴族」になった。しかし、土地を買ってすぐに大火事が起こり、二つの土地の屋敷は灰と化した。同年の夏には領地の屋敷は罹災から復興した。ドストエフスキーは、母が読み書きに使っていた『旧約聖書』や『新約聖書』、またシラーの『群盗』などに強い感銘を受けた。 1833年、中学受験のため兄・ミ
ポール・モラン(Paul Morand, 1888年3月13日 - 1976年7月24日)は、フランスの作家、外交官である。短編集『夜ひらく』(1922 年)、『夜とざす』(1923年)[1]で一躍ベストセラー作家となった[2]。 パリ政治学院を卒業後、外交官として各国を回った。その傍ら、詩や小説を書き出し、マルセル・プルーストとも親交を持った。1920年代のモダニズム小説として知られる「夜ひらく」(1922年)で一躍有名になった。優雅な紳士で国際情勢にも詳しいモランは、社交界の寵児となった。モランの作品は日本でも、同時期から堀口大學により精力的に翻訳され、日本モダニズム文学に影響を与えた[3]。 1925年にバンコクのフランス公使館へ赴任し、その途上、ポール・クローデルを訪ねて日本にも立ち寄った[2]。このときの旅行記に『土地以外何物もない』(Rien que la terre)があり、
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