2019年11月28日のブックマーク (2件)

  • 田嶋陽子が日本のフェミニズムにもたらした功罪、なんて書きたくない(山内 マリコ)

    のお茶の間に初めてフェミニズムの風を運んだのは紛れもなく、英文学者で女性学研究家の田嶋陽子だ。ただ、テレビで男性識者たちと激しい喧嘩を繰り広げる彼女を見て、フェミニスト=怒れる女性、というイメージを抱いてしまった人は少なくないだろう。 そんな彼女をいま、再評価する動きがある。“フェミマガジン”である『エトセトラ』の2号目の特集、その名も「We LOVE 田嶋陽子!」だ。責任編集を努めたのは、作家の山内マリコさんと柚木麻子さん。 同特集を発案した山内さんは、“田嶋フェミニズム”の功績をあるきっかけで再認識したという。そんな彼女が、「田嶋陽子の日フェミニズムにおける功罪」についてどう考えるのか聞いてみたかった。すると、こんな答えが返ってきた。 ――「田嶋陽子が日フェミニズムにもたらした功罪」なんて書きたくない。 ※以下、山内マリコさんによる寄稿 「男女平等教育」世代から見た田嶋陽子

    田嶋陽子が日本のフェミニズムにもたらした功罪、なんて書きたくない(山内 マリコ)
    maelstrom
    maelstrom 2019/11/28
    たけしは自身がテレビ業界における男性権力を握ってる自覚があっただけにいわば「予備軍」の当事者としてセクハラ概念やフェミニズムを理解してたんだろうなと思うが、テレビ的には殆ど簒奪だよな、、
  • 公共空間の消失とアイデンティティの時代を生きる - 京太郎のブログ

    0.なぜいま公共について考えるのか なぜ今公共概念を問う必要があるのかと言えば、公共という概念が消失しているということを通して「左翼と右翼の対立」を問い直す必要があるからだ。 私がこれから言及するリベラリズムという概念は一般に膾炙している「リベラリズム」とは少しずれた意味で使われているということである。というのも、一般的にリベラルという言葉は、かなり曖昧に、時に左翼という概念と混同されて語られているのである。政治学的な意味でのリベラリズムは、そうした一般的によく使われる「リベラリズム」とは少し違うのであるが、「左翼と右翼の対立」という図式が「リベラリズム」を左翼の類似物として同じ枠組みに入れてしまうのである。 よって、私がこれから一見してリベラルに対して批判的な見解を展開したとしてもそれはインターネットにいる知識人もどきの「リベラリスト批判」にそのまま接続するわけではないというわけではない

    公共空間の消失とアイデンティティの時代を生きる - 京太郎のブログ