■ 『SFマガジン』(早川書房)誌上で連載されている評論、宇野常寛「ゼロ年代の想像力」も第5回を迎え、ついに「ポスト決断主義」作品の具体的な論述に入った。理解の遅い筆者もようやく、宇野氏の目指すところの物語像がおぼろげながら見えてきたのだが、そこでかの「ギートステイト」での東浩紀の雑記*1に書かれていた言葉がふと思い返された。東氏は宇野氏の目指すところの物語を指して「コミュニタリアンの文学」と称された。確かにそれは的確な名付けかもしれない。さらに東氏は『ギートステイト』を指して「リバタリアンの文学」と称された。この名付けもまた、十分に納得できる。しかし東氏は同時に、いわゆるセカイ系と呼ばれた作品群を指して「リベラルの文学」と称された。これについてはよくわからなかった。一応、東氏は、その名付けに「それはひとを傷つけてはならないという内向きの倫理の文学なので」という説明書きを加えている。それ