「高畑勲お別れの会」の会場に入る参列者=東京都三鷹市で2018年5月15日午前10時27分、和田大典撮影 4月に82歳で亡くなったアニメーション監督、高畑勲さんの「お別れの会」が15日、東京都三鷹市の三鷹の森ジブリ美術館で営まれた。「アルプスの少女ハイジ」などで高畑監督と組み、スタジオジブリをともに設立した宮崎駿監督や、同スタジオの鈴木敏夫プロデューサーらが参列し、日本のアニメーションを大きく発展させ…
「火垂るの墓」など数々の名作を手掛けたアニメーション映画監督の高畑勲(たかはた・いさお)さんが5日午前1時19分、肺がんのため東京都内の病院で死去した。82歳。三重県出身。葬儀・告別式は近親者で営み、5月15日にお別れの会を開く。二人三脚でヒット作を生み出してきた盟友の宮崎駿監督(77)は、大きなショックを受けている。大林宣彦監督(80)ら国内外から追悼の声が相次いだ。 高畑監督の病状について、映画関係者は「昨年から体調が悪いと聞いていた」と説明。今年2月11日に少年時代を過ごした岡山県で講演を行い、関係者によると、監督自身が「体調が良くない」と話し、講演中にせき込む場面もあったという。 高畑監督が籍を置いたスタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーは「やりたいことがいっぱいある人だったので、さぞかし無念だと思います」と追悼のコメントを発表。「宮崎駿とも相談し、ジブリとして盛大なお別れの会を執
評伝 日本のアニメーションを世界に知らしめた高畑勲さんが、5日死去した。長編アニメーションの監督作は8本と寡作だったが、いずれも実験性と冒険心にあふれ、盟友の宮崎駿さんと共に、アニメ表現の可能性に挑み続けた。 宮崎さんと出会った1960年代後半は、日本アニメの成長期。テレビアニメが量産され、高畑さんは宮崎さんと二人三脚で、低予算、短い製作期間という厳しい要求に応えながら、絵や動きの質を高めることに熱中した。85年、スタジオジブリ設立に加わったのも、作りたいアニメを製作する環境を自分たちで整えるため。とはいえ商業性よりも作家として作品の芸術性を追求し、経営には参画しない姿勢を貫いた。 盟友の宮崎さんとは対照的。原画から手がける宮崎さんに対し、高畑さんは絵を描かず、才能ある仲間を集めて構想を実現させた。作品作りにはじっくりと時間をかけた。巨額の製作費をかけるジブリアニメは、回収のために大ヒット
「火垂るの墓」や「アルプスの少女ハイジ」など数々の名作を手掛けたアニメーション映画監督の高畑勲(たかはた・いさお)さんが5日、東京都内の病院で死去した。82歳。三重県出身。 1968年に「太陽の王子 ホルスの大冒険」で劇場用長編アニメを初監督。70年代に「アルプスの少女ハイジ」「母をたずねて三千里」などのテレビシリーズを手掛けた。85年に宮崎駿監督とスタジオジブリを設立した。 「火垂るの墓」「おもひでぽろぽろ」などの監督作品は国内外で高く評価され、宮崎監督とともに日本のアニメを世界に誇る文化に押し上げた。2013年に「かぐや姫の物語」を公開。14年にフランスのアヌシー国際アニメーション映画祭で名誉賞を受けた。98年紫綬褒章。(共同)
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