今は植物で覆われていますが、すっぴんの時代。新宿西口駅前の中央部分に大きく穴が開いたコンクリートの建 … Continue reading
今は植物で覆われていますが、すっぴんの時代。新宿西口駅前の中央部分に大きく穴が開いたコンクリートの建 … Continue reading
昭和初期、日本一の乗降客数となった「新宿駅」。周辺には多くの百貨店が進出、映画館も相次ぎ開館するなど、浅草や銀座に匹敵するショッピング・アミューズメントタウンが形作られた。 1926(大正15)年、新宿で最初の本格的百貨店となる「ほてい屋」が新宿三丁目に開業した。前身の「布袋屋呉服店」は、古くからの商業地・四谷の繁盛店であったが、震災以降、「新宿駅」周辺の著しい発展を受け新宿に進出してきた。その後、競合する百貨店が新宿に進出すると、安売り商法が裏目に出て業績は悪化。1935(昭和10)年には、隣接して建てられた「伊勢丹」に買収され閉店となった。「ほてい屋」の建物は「伊勢丹」に一体化される形で現存している。【画像は大正期~昭和初期】 神田の呉服店として創業した「伊勢丹」が、新宿に進出したのは「ほてい屋」や「三越」などの百貨店が出揃った後であった。1933(昭和8)年に開店した「伊勢丹 新宿店
東日本旅客鉄道(JR東日本)公表のデータ「各駅の乗車人員」によると、2022年度、全国の駅のなかで乗降客数ナンバーワンの駅が新宿駅です。1日の平均乗客数は60万2,558人。 この数字はJR東日本の利用者数のみをカウントした調査。新宿駅は小田急線、京王線といった私鉄や地下鉄の駅もあり、これらの利用者数を合わせれば利用者数はもっと増えます。 コロナ禍で多くの人が外出を控え、その後はリモートワークなどの普及で駅の利用者は減少しました。そんななかでも日本最大の乗客数を誇っているのですから、新宿駅はまさしく大都会東京を象徴する駅といっていいでしょう。 一方で新宿の街の歴史をたどると、江戸時代には宿場町として栄えましたが、駅がつくられた場所は宿場から離れていたため、駅開業当初は閑散とした状況でした。が、駅の誕生とともに街が発展していきました。まさに駅が街をつくったのです。 そんな新宿駅と街の歴史を解
少年院を出た川本信夫(夏木陽介)は故郷に帰るが、恋人の道子(星由里子)は東京に出てしまっていた。 川本も同郷の福井(鈴木和夫)を頼って東京に行き、道子に再会する。しかし道子はすっかり街の不良になっていた。 この映画の東京シーンは新宿が舞台だ。 (撮影・2020・03・09) 福井は川本、道子に二人が住む部屋の世話をする。その道案内の途中、地下通路のような所を通る。 これは新宿駅の東口、西口を結ぶ「角筈(つのはず)ガード」だ。場面は東側の出入口である。 新宿の東口、西口を歩行者が行き来するのは意外と不便だ。北側なら青梅街道の大ガード、南側なら甲州街道だが大回りになることが多く、この「角筈ガード」は重宝されている。 (地下であるなら「メトロプロムナード」、あるいは昨年(2020年7月19日)開通した新宿駅構内で行き来できる「東西自由通路」があるが) 開始から0:28(東京都新宿区歌舞伎町1丁目
1日あたり約350万人と、国内のみならず、世界一の乗降人数をほこる新宿駅。中央線や山手線といったJR各線のほか、小田急線、京王線、地下鉄3路線が乗り入れる、日本有数のターミナル駅です。この大ターミナル駅を擁する新宿において、西武鉄道の新宿線は、他路線の新宿駅から離れた地に、単独ターミナルである西武新宿駅を設置しています。 他路線と離れた場所に位置する西武新宿駅 西武新宿駅とJR新宿駅の間は、およそ400メートル。徒歩連絡も可能な距離ではありますが、決して便利とはいえません。この少し離れた新宿駅を構える西武線も、かつては国鉄新宿駅(当時)へと乗り入れる計画がありました。 1895年の久米川仮駅~川越間開業から始まった現在の西武新宿線は、1927年に(旧)西武鉄道村山線としての高田馬場~東村山間開業により、都心へ乗り入れました。しかしながら当時の高田馬場駅は、地下鉄東西線はおろか都電すら未開業
左のビルは京王線が始発していた京王パラダイスビル。中央は東京府立第六中学校(現都立新宿高校)。 新宿駅東口方面 昭和(戦前) / 昭和08年~10年 1839[ この写真の利用について ]
「広場」→「通路」に書き換えられた過去 JR新宿駅西口改札を出て真っ直ぐ進む。まもなくすると、タクシーやバスの乗場がロータリーを囲むようにしてある、広い地下空間が見えてくる。 さて、ここはどこか? そう聞かれたら誰もが「西口地下広場」「西口広場」と答えるだろう。1966年に新宿駅西口の整備事業が完了した時は、確かにそうだった。 しかし、3年後の1969年7月18日には、駅案内表示板の「西口地下広場」の文字はすべて「西口地下通路」に書き換えられた。立ち止まる人がいれば「通路ですから移動してください」と、警官がすぐに声をかけるようにもなる。 当時の警察や行政は、ここが「広場」ではなく「通路」という認識を広めようと躍起になっていた。なぜ、そこまで「通路」にこだわったのだろうか? ここが「広場」では不味かった 「広場」が「通路」に変わった1969年。この年は2月頃から、新宿駅西口地下広場にベトナム
2021年8月2日7:50am、僕は再び日本橋の上に立った。 前回の中山道の旅からすでに5ヶ月。 高まった旅への衝動を解き放つ時がきた。 さあ、これから甲州街道の旅をはじめよう。 一歩足を踏み出したら、懐かしい感覚が全身によみがえってきた。 甲州街道は、江戸幕府によって整備された五街道のひとつだ。 この日本橋を起点として、甲府まで37次、さらにその先7次を経て、長野県の下諏訪までを結び、中山道に合流する。 宿場は全部で44宿、全長約208kmの街道だ。 参勤交代で甲州街道を利用した大名は、信濃の高遠藩、飯田藩、諏訪藩(高島藩)くらいのもので、大名行列の往来は少なかった。 甲州街道はほかに重要な任務を背負った道だったのだ。 東海道や中山道のように江戸と京都をつなぐのではなく、はたまた、日光街道のような参詣道でもない。 江戸と甲府をつなぐ意味とは果たしてなんなのか。 この街道は、将軍家の江戸城
京王線の始発駅である新宿は今、JR線の西側の地下にあります。しかし現在の地に落ち着くまで、駅は改称と移転を繰り返しました。当時の新宿の中心を目指して延伸するも、戦災が暗い影を落とします。 ようやく「停車場前」まで延伸 でも当時は「新宿駅裏」のような場所 東京の私鉄には、かつて意外な場所が始発駅だったという路線がいくつか存在します。始発駅の場所が変わる場合、背景には様々なドラマがあります。今回は京王線新宿駅の例を見てみましょう。 京王線は戦前、現在のJR新宿駅南口地点で中央線と山手線をまたぎ、山手線の内側へ約400m、現在、伊勢丹新宿店のある新宿三丁目交差点付近まで延びていました。「京王ビル」と呼ばれた駅ビルが建っていた時代もありました。 京王5000系電車(2017年7月、恵 知仁撮影)。 京王線の歴史を振り返っておきます。1913(大正2)年に京王電気軌道(現・京王電鉄)の笹塚~調布間が
関東大震災後に発展した新宿は、第2次世界大戦の戦災により焼け野原となった。しかし終戦から5日後には闇市が立ち上がり、東京で最もにぎわう街へと変貌を遂げていく。 武蔵野の雑木林の中に誕生した新宿駅 東京最大の繁華街として知られる新宿は、新宿駅とともに発展してきた。ギネスブックに「世界一の乗降客数(1日に350万人以上)の駅」と記録される同駅は、1885(明治18)年に日本鉄道品川線の駅として産声を上げた。当時、鉄道駅ができると買い物客が奪われると反対する地域が多かったが、新宿でも、甲州街道の宿場から発展し市街地の中心だった内藤新宿(現在の新宿1、2丁目)の住民が駅の開設に反対。そのため、新宿駅は市街地から離れた甲州街道と青梅街道の間の雑木林の中に開設された。現在のJR山手線である日本鉄道品川線は旅客の利用が少なく、1日50人程度。雨が降ると乗降客ゼロという日もあった。 89年に、甲武鉄道の新
昼休みに図書館へ行ってくるから、戻りが遅れたらゴメンナサイ、と上司に断って、出かけてきました。どこへ行ったの?と聞かれたので、角筈図書館です、と答えたら、懐かしいねぇ、と言われました。以前は、このあたり一帯は角筈だったんだよ、と教えられました。淀橋浄水場跡周辺に、現在の西新宿高層ビル群の姿が造られ、それに合わせて現在の住居表示に変わったのですね。地図を見ると、角筈という地名は、見つかりません。公共施設等で、その名が残っているだけですね。ちなみに、新宿の変遷を紹介されているURLを見つけました。 http://www.interq.or.jp/happy/walkaway/m03map/m03e_station/m03e_shinjuku/mview_shinjuku00.htm トップページは http://www.interq.or.jp/mars/omr/index.html です。
徳川家康が整備を始め、幕府直轄で管理された「五街道」。その中の一つ、江戸から下諏訪を結ぶ「甲州街道」は1602(慶長7)年に開設された。当初、起点となる「日本橋」から最初の宿場(第一宿)は約4里となる「高井戸宿」であったが、ほかの街道の第一宿(「品川宿」「板橋宿」「千住宿」)は約2里の距離にあったことから、1698(元禄11)年に「日本橋」と「高井戸宿」の間に新しい宿場として「内藤新宿」が設けられた。新しい宿場であったことが、現在の「新宿」の地名の由来となっている。写真は「新宿歴史博物館」で展示されている「内藤新宿復元模型」。 「内藤新宿」は現在の「新宿通り」沿いにあった。写真はかつての宿場町の西端付近、「甲州街道」と「青梅街道」の追分(分岐点)にあたる「新宿三丁目交差点」。直進方向が「青梅街道」で、「甲州街道」はここで左折していた。 「内藤新宿」の宿場町が形成されていたのは、「四谷大木戸
写真に写されている情報を「読み取る」 資料1の写真に撮影されている内容を確認してみましょう。 まず、画面上方を横切る道路の向こう側に複数の店舗が立ち並んでいることがわかります。これらの店舗には看板が掲げられており、業種が判別できるものもあります。一方、画面手前には建物のない場所があり、耕作地として利用されているようです。その奥には先ほどの道路に面して屋台らしきものも見られます。 また、画面の枠外には、「2」という数字や、「2区」及び「四谷新宿」といった文字列が書き込まれていることに気が付きます。これらは、このフィルムが戦災復興土地区画整理事業第2地区を撮影したものであることを示しています。 戦災復興土地区画整理事業第2地区の確認 戦災復興土地区画整理事業第2地区は、現在の新宿区新宿一丁目及び新宿二丁目の全域に新宿三丁目や四谷四丁目の一部などを加えたエリアが対象範囲でした 注1 。現在の外苑
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