豊臣秀吉の後を継いだ徳川家康は、当初キリスト教の布教に寛容だった。家康は、征夷大将軍になったとき、イエズス会やキリスト教勢力と和解している。「秀吉が壊した外交関係は一旦、修復させてみる」というのが家康の方針だったようだ。 が、あるときを境に、キリスト教を全面的に禁止することになる。しかも、それは秀吉のときの「バテレン追放令」のように「自発的にキリスト教を信仰する分には構わない」というような緩いものではなく、キリスト教を完全に禁教にしてしまうのだ。 家康がキリスト教を「禁教」にした理由 家康がキリスト教を禁止したのは、慶長14(1609)年に起きたポルトガルとのトラブルが契機になっていた。日本の朱印船が、マカオでポルトガル船のマードレ・デ・デウス号とトラブルになり乗組員60名が殺されてしまったのだ。 その報復として、日本側は長崎に入港していたデウス号を撃沈させた。この一連の出来事では、幕府の
![徳川家康「キリスト教を徹底弾圧した」深い事情](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/0cce2783d262ee893066ee507121663a35aeb5a3/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Ftk.ismcdn.jp%2Fmwimgs%2Fb%2F0%2F1200w%2Fimg_b0006949a6338c829088a7d661336f0e877162.jpg)