※本記事は、江崎道朗著『コミンテルンの謀略と日本の敗戦』(PHP新書)より一部を抜粋編集したものです。 尾崎ゾルゲの対日工作 1941年(昭和16年)10月18日、第三次近衛内閣が政権を投げ出し、代わって東條内閣が成立した。ゾルゲ事件で尾崎秀実が逮捕されてから三日後のことである。 尾崎らが長期化を画策していた支那事変は、すでに開戦から4年目となり泥沼の様相を呈していた。この間、「支那事変を解決するためには蔣介石政権の背後にいる英米諸国と闘わなければいけない」という奇妙な議論が大勢を占める中で、反英米の気運が高まり、1940年(昭和15年)9月27日に日独伊三国同盟は締結され、同年10月12日に大政翼賛会が結成されて既成政党は解散し、議会制民主主義は瀕死の状態に追い込まれていた。 1940年9月には、日本軍がフランス領インドシナ(=仏印。現在のベトナム、ラオス、カンボジア)の北部に進駐し、さ