鍵っ子の鍵っ子による鍵っ子のための同人音楽サークル、雪桜草です。 Keyのモチーフにオリジナルの曲と歌詞をのせた二次創作をメインに活動しています。Webサイトにて作品紹介やイベント参加の詳しいお知らせをしてますので、よろしければご覧ください!【C84 参加情報】 8月12日(月) 東ハ-58a---雪桜草 情報---■mylist→mylist/10045714 ■HP→http://yukizakura.sakura.ne.jp/ ■Twitter→@yukizakurasou
の三作品を見ていて、これらの共通点を見つけました。 全て量子力学(超ひも理論など)で登場するエヴェレットの多世界解釈。 つまり「並行世界」の話が話の中心舞台となっています。 「ひぐらしのなく頃に」は、最初からパラレルワールドが舞台で、 「CLANNAD」も、超ひも理論(超弦理論)の世界観が舞台です。 「ジョジョの奇妙な冒険」は、6部でのラスボス(プッチ神父)が、スタンド能力で時を加速させて、パラレルワールドへと導き、7部(SBR)では、完全にその世界観が舞台になりました。 作者の荒木さん自身も、この展開やスタンド能力を量子力学の世界観で説明していました。 「ひぐらしの鳴く頃に」(07th Expansion作品)の原作者の竜騎士07さんは、 「CLANNAD」「AIR」「kanon」などの総称である「Key作品」の原作者の麻枝准(まえだじゅん)さんの作品の影響を多く受けていたと語っていまし
CLANNADのことみシナリオで、とても印象に残るこのフレーズ。 「おとといは兎をみたの。昨日は鹿。今日はあなた」 これについて衝撃の事実を知りました。 これって、とある小説の一文だったんですね。 って、エンディングのスタッフロールをちゃんと最後まで見る人なら、普通に知っている事ですか…そうですか(汗) でも私は、これをはじめて知り、その小説を読んだ時、一瞬全身に鳥肌が立ちました。 …これ…すげぇ… というわけで、ネタバレ全開で「ことみシナリオの一文」について書きたいと思います。 例によって未プレイの方はここまでで。 でも、この小説の内容を知っていると、ことみシナリオの見方が変わるかもしれません。 ただ…ことみシナリオ自体、アニメでちゃんとやってくれるのかどうかわかんないだけどね。 (続きはこちら(↓)へどうぞ) --------------------------- ~ Day befo
アニメの『CLANNAD』があまりにも良かったので、今度、原作のゲームにも手を出してみようと思っているのだが、その前に、出崎統が監督を務めた劇場版の『CLANNAD』を見てみた。京都アニメーションのTV版と比べてみると、とても同じ原作のゲームから作られたとは思えないのだが、いったい、どういうところでそんなにも違いが出てくるのかということをいろいろ考えさせられたという点では、興味深い作品だったと言える。 TVアニメの『CLANNAD』は全4クール、50話近くにもわたって放送されたのに対して、劇場版のほうはたった一時間半しかないという時間上の制約というのが当然ある。しかし、逆に、そんなふうに時間が制限されると、いったいどこに作品の力点を置くかというところが非常にはっきりするように思う。 結論から先に言うと、出崎統は、『CLANNAD』のメインテーマとでも言うべき家族の問題というものがよく分かっ
2024-07-10 日本の巨大ロボット群像展を見た 感想 アニメ ガンダム オタク展示をどこまで深くするのかは難しい。 2024-06-12 高橋真琴 個展『メルヘンの小部屋』に行ってきた。 高橋真琴 展『メルヘンの小部屋』5年ぶり待望の個展が実現しました!6月5日(水)〜16日(日)ギャラリー小さい芽・夙川物語絵原画「お菓子の家」「宝石姫」「ベルとまもの」60〜70年代頃グッズ原稿原画、版画、グッズ初日は事前受付による原画販売になりま… 2024-06-03 実験動画『AURA BATTLER DUNBINE SIDE L』について 感想 ダンバイン 富野 トミノ www.youtube.com 神風動画とバンダイナムコフィルムワークス(?)が製作した動画の件について。ちょっと他の事をしていたので語れなかったのだが。 僕ではない他の人が細かく1983年の聖戦士ダンバインのオープニング映
昨日、近所の大きな公園に屋台が並んでいたので、気になって行ってみたら、祭ではなく花見だった。大勢の人がいたが、中でも家族連れが多かった。大人達が花見をしながら飲み食いしている最中、子供達も座って桜を見ているのかと言うと、そんな訳は無く、やっぱり退屈だからか、子供達だけで公園内を駆け回っている。俺も花より「子供」で、大人の俺から見ると訳分からん遊びながらも、楽しそうに燥ぎ回っている、「汐」くらいの年齢の男の子や女の子を見ていると、達観のような、諦観のような、何か変だけど、幸せな気分になった。俺はロリコンで、AVではあいり&めいりが好きだし、エロゲでも魔法とHのカンケイ。とか好きだけど、子供達を見ていて、そこから欲情とかの感情が湧いてくることは、当たり前だけど、一切無かった。 関連記事 ⇒原作CLANNADを踏まえたアニメCLANNADを見るときの注意点その1 ⇒ギャルゲーエロゲーの在り方を示
ニコニコ動画のCLANNAD AS関連のを見ていたんですが、コメント欄での風子への理解度の低さに少しだけ驚きました。とは言え、ニコ動でコメントを書くようなユーザーって若い人たちでしょうし、原作をプレイしてなさそうな感じだったので当然と言えば当然でしょうか。アニメだけでは読み取ることが不可能な部分が多すぎますんで。例えば風子がAFTERでデレた場面。バカデレなどと称されていますが、あれもちゃんと伏線があるんですよね。 色々とありますが、個人的にはタイトルどおり『風子は「ぷち幻想世界の少女」だった』という解釈です。意味がわからないという方はともかく、「風子は幻想世界の少女によって助かった」と解釈している方、たぶん違います。僕の解釈では、ですけど。ま、この前のCLANNADの考察記事でたくさんのコメント・解釈を頂いて、人の数だけ考察ってあるんだな、と思うので僕のが正しいとは言い切れませんけども。
原作原理主義も、度が過ぎると原作者までも攻撃してしまうと言う前置きを書いておきます(ぇ。 さて表題の件ですが、アニメだけ観た人は最後に風子が汐を見つけて「ぽかーん」だったのか、あるいは少女=汐で納得されたのかはわかりませんが、ゲーム原作から入った人は納得の演出だったと思った人も多かったんじゃないかと思います。 ただ考察が出回っていなかったゲーム発売直後には、しばらくの間「幻想世界の少女って誰?」という議論が各所でなされていたのです。風子説、渚説、朋也のお婆さん説までw その中でいつの間にか「幻想世界の少女=汐」説が有力となったわけですが、決定付けたのはKeyスタッフによる電撃G'sで連載されたSS集「光見守る坂道で」に掲載された麻枝さんの汐SSでした。あそこで原作者自らが完全に「汐は少女だ」というSSを書いたことでファンは納得したんでしょう。京アニのCLANNAD AFTER STORYで
Twitterからの転載・改稿。 CLANNADは、主人公とヒロインが、出会いから恋愛、そして学生生活におけるゲゼルシャフト的関係を通じて、「イエ」という史的・空間的連続性を持つ共同体に包摂され、家族として成り立つという話として読みうるし、またそう読まれがちである。 しかし、CLANNADにおいて「イエ」そのものへの帰属が重要であっても決定的でないことは、妻/ヒロインの実家である古河ファミリーに、主人公である岡崎朋也が参入しない/参入を拒否することから見て取れる。より重要――そしておそらくはメインのテーマであるのは「主人公自らのイエ」への帰属と、その家長としての自意識の形成である、と見るべきだろう。 主人公が古河ファミリーに帰属しないのは、彼自身に「古河のイエ」の一員ではなく「自らのイエ」の家長であるという自覚が無意識的にあるからだといえよう。そのくせ育児放棄とかはしてしまうのだから、主人
アニメの『とらドラ!』の最終回を見た。今クールは、『CLANNAD AFTER STORY』という、『とらドラ!』とテーマ設定のところでいろいろと重なる作品があったので、『とらドラ!』を見ているときでも、『CLANNAD』とどう違うのかといったことをいろいろと考えながら見ていることが多かった。その点について少し書いてみたい。 『とらドラ!』も『CLANNAD』も家族を問題にしている作品であると、ひとまず、言うことはできる。しかしながら、ここで問題となっている家族というのは、家族というものの自明性が失われた後の家族だろう。つまり、家族という言葉がいったい何を意味するのかよく分からなくなった、そのような地点から、これらの作品が、再び家族というものを捉え直そうとしているように思えるのである。 『とらドラ!』と『CLANNAD』との共通点は、恋愛関係が家族を作ることと密接に結びついているところであ
1 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2009/03/26(木) 22:18:41.45 ID:xlxpUIvG0 俺の高校は一般人とオタとDQNの割合は1:1:8ぐらいのDQN高校 俺はアニメ大好き少年でクラスではそれを隠しDQNになっていた ばれずになんとか生活してきたが学校でもアニメの話をしたかった俺は DQN共にクラナド(アニメ)を薦めた その日から俺のあだ名はクラナドになった 5 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2009/03/26(木) 22:21:32.74 ID:M9XqhWRJO ミタラシの兄貴!こんどはクラナドっすか!ぱねぇっすね! 10 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2009/03/26(木) 22:24:27.14 ID:RB4JamkyO >>1 クラナドさっさとパン買ってこいや 7 :以下、名無しにかわりま
ちらほらと聞かれるので気になっているのが、22話での伊吹風子さんへの風評です。どうしてああいう登場だったのかとか、何故ひいきされているのかとかありますが、何と言っても「最高におかしかった」と言うことがあるんじゃないかと思いますw もう○○ガイと言われても仕方が無いくらいにw 原作ファンとしても、あの場面は結構ビックリしましたが、割と簡単な考察で説明できたりもします。それをアニメだけの人たちにもわかるように説明していきます。とは言え、納得できるものじゃないかもしれませんが。 風子と言うキャラは特別です。それは原作で見るとよくわかるし、アニメでもひいきされていることからも類推できるかと思いますが。登場回数が自分のシナリオ以外でも多いってことはありますが、それ以上に感じたのがその登場場所と機会です。 風子は、風子シナリオ=アニメで言う一期5話くらいから9話までのお話なんですが、その部分でまず1回
京都アニメーション版のCLANNADにおいては、『背中』が非常に印象深かったです。最後が『背中』だったこと、これが本当、色々あって、どうしようもなく素晴らしいことに思えました。『背中』の印象深さ、これは原作においてもそうですね。パッケージ裏、あるいは公式サイトであった、あの、坂道を朋也と渚ふたりが並んで歩いていく絵。 アニメですと、これ。「俺たちは登り始める。この長い、長い、坂道を」。第一話以外にも、回想という形で幾度か登場していました。 『背中』の絵が示唆するもの。 実は、第一期「CLANNAD」の最後の絵(番外編「夏休みの出来事」最後の絵)も、第二期「CLANNAD AFTER STORY」の最後の絵(番外編「一年前の出来事」)も、『背中』の絵でした。 最後が、目に見える最後が、わたしたちがCLANNADに触れるラストが、『背中』であるということ。これが何を示唆するか。 作品に照らして
今日もやられやく - FC2 BLOG パスワード認証 なにこれ いみわかんねぇ ぶっちぎりで理解不能 何あのむちゃくちゃな巻き戻しwww うん.まぁそう感じるのは当たり前な気がする. 「麻枝准が書いた物語だから」とか「ループ構造云々」という補助線を引きつつ,無理やり納得しないとこの物語は理解できないと思う. つか京アニが悪い. こんな事前告知なしで突然ループしたら混乱するに決まってるだろうよ. ゲームは少なくとも構造的にループを含んでるから(下図参照),理解できるけど アニメは,唐突すぎるだろう(下図参照) ループの構造的に,Airと同じようなもんなんだけど,Airはもっとファンタジーだし事前告知あるから,アニメ化してもループをうまく消化できたけど,今回は…だめだったね. Airのときは,まだ麻枝准が「ゲームが内包しているループ構造」を信じ切れずに,物語の中でちゃんと説明して読者に分かっ
先日「なぜ泣きゲーではしばしば樹木が奇跡の象徴として登場するのか:Key『Rewrite』を見すえて」という問いが投げかけられていたので、少しレスなどしてみる。 樹木は、エリアーデにおいては世界の中心、フレイザーにおいては生命ならびに生と死の時間的サイクルを表すものであるとされる。ゆえにそれは、ある閉じたアトモスフィアの中において生と死のサイクルを描き出す「泣きゲー」というジャンルにおいて、最重要の神話的表象――物語の基点や収斂点として機能しうる。と、大雑把に云えばそうなる。*1 では、具体的にはどのように機能するのか、Key「kanon」を題材として解説したい。これはほんの一例であり、実際にはさまざまなあり方が考えられるが、「樹」と「奇跡」が緊密に絡み合っている作品であるので、これに関して考察する際に何らかの知見は得られると思う。 「kanon」における丘の上の樹は、当ゲームのメインヒロ
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く