喩え話だが、道重さゆみちゃんのような天上界の天使とやってみたいという男がいるとする。これは単純な性欲である。さらに高じると、道重さゆみちゃんとやれないのは、存在として耐え難いという思いが生じてくる。これは自我の欲求なのである。この場合に問題なのは、諦めれば楽になるという問題ではなく、むしろ諦めることへの畏怖である。何とはなしにこれが断念され、超越的な美を希求することもなくなり、つまらない和解条件に署名し、俗塵にまみれた日常に回収されていくことが畏怖の本質なのである。絶対的な美に一度でいいから触れてみたいという自我の欲求をよくよく考えると、単なる強迫観念であり、叶わなくても何ら困らないはずである。死んだ後に残念思念として「道重さゆみちゃんとやってみたかった」と何億年も絶望し悶絶するとか、そういうことなら深刻であるが、おそらくは唯物論的に捉えるのが正しいであろうし、死んだらこの桎梏から解放され