ひとりの読者として、向きあった作品から何が読めるかということは、あらためて考えてみるととても心許ないことだと思う。一回だけで読み捨ててしまうような小説の場合、筋を追いながら登場人物の行動や心理に共感したり反発したりしながら、ことばの流れに乗っていればいいわけだし、その時の気分や感情によって作品の面白みが変わってしまうことだってありうる。もちろん、文学作品を楽しむということで言えば、それはそれで大いに結構なことだろう。ところが、文学研究を専攻しそれで飯を食っているとなると、「おもしろいですね」と言うだけではすまないこともある。そこで、<読むための理論>とやらで武装して作品に向き合い、表現や構造を分析することになる。古代文学を専攻する僕の場合、理論武装というほどに論理的ではないとしても、語りだの様式だの話型だのと言いながら作品を読み、それでけっこう読みは深められたと思い込んでいる。 ところが、