ブッダは、ラージャーヤタナ(菩提樹)の樹の下で悟りをひらいた後、場所を替えてふたたび瞑想にふけっていた。そのとき、心中に次のような考えがきざした。 わたしのさとったこの真理は深遠で、見がたく、難解であり、しずまり、 絶妙であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところで ある。ところがこの世の人々は、執著のこだわりを楽しみ、執著のこだ わりに耽り、執著のこだわりを嬉しがっている。さて執著のこだわりを楽 しみ、執著のこだわりに耽り、執著のこだわりを嬉しがっている人びと には、(これを条件としてかれがあるということ)すなわち縁起という道 理は見がたい。またすべての形成作用のしずまること、すべての執著 を捨て去ること、妄執の消滅、貪欲を離れること、止滅、やすらぎ(ニ ルバーナ)というこの道理もまた見がたい。だから、わたくしが理法 (教へ)を説いたとしても、もしも他の人々がわたくしのいう
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