あとで読むに関するmayoretasuのブックマーク (4)

  • 屈原 - アンサイクロペディア

    糞真面目[編集] 出だしは悪くなかった。いや、むしろかなりよかった。屈原が生まれたのは楚国の王族の血をひく大変な名家で、彼自身も詩の中で誇らしげに述べている。 要するに「俺は帝の家筋で、父ちゃんの名は伯庸だ」。どうだ、なんとムカつくではないか。しかしその立派な血統をたどってみると、屈氏は王室と同族ではあるがいわゆる「家」ではなく、その祖は独断で決行した奇襲作戦が大失敗して首をくくったヘッポコ元帥である。自慢するほどのことではない。 彼は有能な政治家であり、後世の手として記録されるほどのすぐれた詩人だったが、じつに糞真面目な人物であった。曲がったことが大嫌いで、不正を見つければ直ちにってかかった。理にかなわないことはいちいち疑ってかかった。周りの人間にとっては面倒なことこの上ないその性格は、18歳の時に殴り書いた詩『天問』にすでに表れている。 曰遂古之初,誰傳道之?(世界の始まりを誰が

    屈原 - アンサイクロペディア
  • 幸徳秋水 - アンサイクロペディア

    幸徳 秋水(こうとく しゅうすい、明治4年9月23日(1871年11月5日) - 明治44年(1911年)1月24日)は、自由民権の地・土佐が誇るアナルキストである。 生涯[編集] 幼少~青年期[編集] 高知県中村町(現在の四万十市中村市)に生まれる。某陰陽師の末裔である。幼少期から頭が良く、母親のおっぱいをまさぐりながら、そこに文字を書いたという逸話が遺されている。 21歳のとき上京、「金盃」と称して陰茎の包皮に酒を注ぎ、芸妓に飲ませたことで知られる先生に師事する。この時より、秋水は遊園地通いを始める。 第1の離婚[編集] 明治29年(幸徳26歳)、17歳の結婚する。が、若い時分から遊園地に通い、美人主義を唱えていた幸徳には、うぶで不美人なは気にくわなかったので、結婚式の帰路、「口直し」と称して遊園地に行ったという。そして、あろうことか幸徳は、を故郷に送り届けて、すぐに三行半を突

  • 日記1041

  • 民族問題を考える

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