私が「差別の絵画は絶対ダメ」とは感じないのは、けっきょく「差別は絶対ダメ」とは考えていないからなのだろうか? 話がややこしくなるが: そうすると、たとえば「体罰の絵画は絶対ダメ」とはまったく感じない私は、けっきょく「体罰は絶対ダメ」とは考えていないのか、というと、そうではないと思う。 というふうにして、体罰の実行と体罰を描いた絵画はまったく異なるが、差別の実行と差別を描いた絵画はけっこう似ている、ということに気付かされる! 「その行いが差別かどうか」は要するに曖昧なのではないか。「その行いが体罰かどうか」に曖昧なところがまずないのに比べて。 私は、会田誠の「犬」シリーズを見て「面白い」と思う。そしてそんな自分に曖昧な後ろめたさをおぼえる。それはきっと、「これは差別ではないんだ」と信じる気持ちと、「これは差別かもしれない」と疑う気持ちとが、混在しているせいなのだ。 絵画の専門家ではなく差別の